紐解かれた記憶(1)
岬と克也が吉沢鷹乃に襲われた日の夜―― 。
竜一族の本家、久遠水皇邸のダイニングの前にある電話の前に立ち、岬は学校からの電話を受けていた。
「はい、ありがとうございます。はい―― 分かりました。お手数おかけしてすみませんでした......」
岬は華やかな金の装飾の施された受話器を置いた。そして、はあっと勢い良く息を吐いた。
あの後、利衛子に学校に一緒に来てもらい、混乱する克也をなんとか説得して久遠の家に連れ帰ってきた。
慌てていたせいで、学校側には何も言わずに帰ってしまったため、学校では、荷物も全て残したままいなくなった二人のことで大騒ぎになったらしい。学校中を探して見つけられなかったために保護者である久遠水皇のところに学校から連絡が行くということとなった。水皇がうまくとりなしてくれたおかげで一応は一件落着となったが、もう少しで危うく警察沙汰になるところだった。そして岬は、連絡もせずにいなくなったことを教師からひどく怒られる羽目になったのである。
『全く......あたしだけ怒られるなんて不公平......。あたしは被害者なのにっ!』
岬は理不尽さを感じずにはいられず、がっくりと肩を落とす。
とはいえ、今日受けたテストで無事合格点をもらえ、一ヶ月以上休んでいたせいで足りていなかった出席日数も単位もなんとか都合をつけてもらえるということなので、それだけはホッとした。
『それにしても......』
岬は、薄暗い雲がかかったようなどんよりした気持ちで、和室へと向かう。
落とし気味の趣のある廊下の照明。そこにほんのり漏れ出てくる障子の向こうの部屋の光。岬は障子の前に立ちつくした。その光の中に入ることを、本能的に拒んでしまっているように、足が動かない。その向こうにある現実を、まだ完全に受け入れられていない自分。
障子の向こうからははしゃいだ声が聞こえてくる。
「わあ!やった!当たりだ!僕の勝ち!」
それは岬の良く知っているはずの声であったけれど、今まで自分が聞いていたものとはどこか違う、そんな声だった。
この家へと連れ帰ってから、水皇も含め、皆で状況を確かめたが、どうやら克也の記憶は三、四歳頃に戻ってしまっているようだった。
実際には、克也がその年の頃にこの久遠の家に来ることはほとんどなかったということで、初めは警戒したものの、克也の頭が子供の頃に戻っているということもあり、水皇がうまく誤魔化してくれたおかげで、克也もこの家で暮らすことは納得してくれた。今のこの克也の状態が外に漏れぬよう、本当に信頼している者以外はこの屋敷にも入れないように水皇が取り計らってくれている。
自分の姿が急激に成長しているとについて不思議がりつつも、これまた水皇の説明により、なんとか受け入れているという。
利衛子のことも、姿かたちが大人になっていることに多少の違和感は感じても、面影が残っていることなどから、姉の利衛子だということはちゃんと分かっているようだった。
こんなふうに、なんとなくではあるものの、ある程度克也はきちんと分かっていた。 ―― ただ一人、岬のことを除いては。
『あたしのことは、分かるわけない。当然だよ。だって今の克也の頭の中は、あたしたちが出会うより、ずっとずっと前なんだから......』
じわりと涙が浮かんでくるのを振り切るように、首を振る。
その時、すっと障子が開き、岬は驚いて思わず後ろにのけぞった。
「あ、岬ちゃん!」
目の前に現れたのは、克也だ。
まさか恋人だと言う訳にもいかず、自分は利衛子の友人だということになっている。
利衛子が岬のことを『岬ちゃん』と呼ぶので、克也もそう呼ぶことにしたらしい。
姿はいつもの克也なのに、言動は全く違う人のような克也が、いきなり目の前に出てきたことで、戸惑いを隠せない岬の手を、克也は引っ張った。
「岬ちゃんもやろうよ、神経衰弱!」
畳の上に裏返しに並んだトランプを指差して克也はにこにこと笑った。
岬としてはとてもそんな気分ではなかったが、克也の無邪気な笑顔を前に断るわけにもいかず、手を引かれるままに、畳に座った。
とはいえ、初めは仕方なしにゲームに参加していた岬も、自分の結果があまりにも無残なものになっていくにつれ、焦りを感じずにはいられなくなってきた。
対する克也といえば、頭脳的に今は三、四歳のはずなのに、かなり『できる』のだ。
『そういえばあたしって、神経衰弱、昔から超苦手だったんだよなー......』
子どもの頃、父や姉とやってはよく負かされて泣いたものだ。あまりにも負けるものだから、ある程度の年になってからはあえてそれをやらずにきたというのに。
『いくら克也だからって、今の頭は子供のはずなのにっ』
先ほどから、克也はどんどん当ててカードを増やしている。
岬は、やはり克也に無理やり誘われて一緒にゲームをやることとなってしまった、隣に座る利衛子に耳打ちする。
「ねえ、普通は三、四歳って、こんなに神経衰弱できるもんなのかな?」
「うーん......多分、一般にはそんなにできるもんじゃないと思う......。でも克也は昔から――、この位の時からやってて、やっぱり強かったよ......」
「そ、そうなんだ......」
『やっぱり頭のいい人っていうのは子どもの頃から何かが違うものなのか......』
岬はがくりと肩を落とした。
そのゲームは結局克也の一人勝ちに終わった。
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わずかに開けたガラス窓の隙間から生ぬるい風が入ってくる。その風を頬に受けながら、ほんのりとライトアップされた日本庭園をガラス越しに眺める。
遊びが終わると、克也は水皇にくっついてさっさと母屋の二階へと行ってしまった。
いつもなら寝る前に少しだけ、ここでこうして二人で語り合うのが日課になっていただけに、岬はすぐに離れに帰る気もせず、一人でここに来た。
『あたし......どうすればいいのかな......』
克也がこんなことになってしまった今、それでなくても微妙だった自分の立ち位置は、さらに宙ぶらりんのように感じる。
自然に胸の辺りに手をやるが、克也のくれたネックレスはもうない。
岬は、ポケットにしまったハンカチを丁寧に取り出し、その中にあるものをそっとつまみ出す。親指と人差し指でつまんだそれは、ライトアップするための光に僅かに反射してきらりと光る。チェーンはばらばらになってしまったが、このペンダントトップだけは、岬の制服の隙間に挟まっていて無事だったのだ。
岬は月型のペンダントトップを握り締めた。そこには僅かではあるが克也の蒼い力が残っているようだった。
『克也が、あたしを護るために込めてくれた力』
岬は泣きたくなって、ぎゅっと瞳を閉じた。
三、四歳の頃には知らないはずの自分にも、克也は今日のように声をかけてくれる。けれどそれはあくまでも、姉の利衛子の友人としてだ。
それが、苦しかった。
岬はトランプをしていた先ほどの克也を思い出す。
『克也って、あんなふうにも笑える子だったんだ......』
屈託のない笑顔が胸につきささる。
吉沢鷹乃の術のせいだと頭では理解して、納得しているはずなのに、克也の無邪気で幼い笑顔が心に痛い。
心が子どもに戻る前の克也は、今みたいに感情を豊かに表したりはしなかった。いろんなことがあって、できなくなっていたのかもしれない。けれどその分、岬に対して時折、特別な微笑みを見せてくれるのがとても嬉しかった。今の克也にはそれはないし、『姉の友人』としてのもの以上は望むべくもない。
『でも――、あたしにとっては今の状態はつらいけど、克也にとっては、憂いのない今の状態が幸せなんだろうな......』
ふと、そう思う。
少なくとも『今』の克也は心の闇などというものとは無縁のように思える。
それが、この後にどんな傷を心に受けて心の闇を作り出してしまうのか――。
漠然とした不安が岬の心に広がっていた。