紐解かれた記憶(2)

 次の日は平日だったが、補講が終わってしまったので岬は時間をもてあましていた。
 受験生なのだから、受験勉強すればいいのだが、事情が事情だけに全くやる気が起きず、気分転換と称し、水皇の許可を得てから『離れ』の建物の外に出た。
 照りつける太陽は決して弱くはなかったが、今日は最近の中では過ごしやすいほうだ。
 岬は持ってきたバスケットボールを二度地面に突いた。そのままドリブルしながら裏手に向かう。
   
 この間、離れの裏にバスケットゴールがあることに気づいたのだ。もう長いこと使われていない様子ではあったが、使うのには問題なさそうだった。そこで、水皇に確認したところ、『使えるのなら使ってもらって構わない』との返答だったため、使わせてもらうことにしたのだ。
   
 ゴールを前に狙いを定める、少し離れたところから何度かシュートを繰り返した。しばらくやっていなかったけれど体は覚えているようで、一度だけ外したものの、あとは岬の放つボールは気持ちのいいぐらいゴールのネットに吸い込まれていく。
 その後、ゴールに向かって勢い良くドリブルし右から切り込んで下から片手でレイアップシュートを決めると、
   
  「す、すごい......!」
 背後から心底感心したような声が聞こえ、ゴールネットを通って降りてきたボールを受け止めながら、岬は振り返った。
  
 すると、建物の影に克也があたふたしていた。
  「ごめんなさい!あのっ、あっちにいたら音がしたから、何だろうって......」
 慌てた様子でなぜか建物に隠れようとする克也がおかしくて、思わず吹き出してしまう。
   
  「隠れなくてもいいよ。一緒にやる?」
 現状の克也に対してあんなにぎくしゃくした気持ちがあったのに、今は不思議と自然に微笑むことができた。体を動かして少しすっきりできたからだろうか。
   
  「いいの?」
 壁の向こうから、克也が岬の目を窺いながらおずおずと再び出てくる。
 図体は大きいのに、その幼いしぐさが面白く、岬は笑いを堪えるのに必死だった。
   
 ゴール脇にある大きめの石に二人は腰掛けた。
   
  「水皇おじさんも、他の人たちもみんな忙しそうなんだ......。だから僕......」
 克也は寂しそうに言う。
  「―― あたし、そんなに暇な人に見える?」
 みんな忙しくしているのに一人だけ遊んでいるのが恥ずかしいような気がして、思わず岬は言ってしまった。
  「えっ......ちがうの? ご、ごめんなさい」
 慌てて謝る克也に、違う違う、と笑って否定する。
  『三、四歳が瞬時にそういうこと気にするってびっくりだな。昔から幼いくせに妙に気を回す子だったのかなあ、克也って』
 感心なような、そうでないような。
   
  「まあ、全くやることがないわけじゃないんだけどね。でも、暇だったのは確か」
 微妙な言い回しに、克也は訳が分からないという顔をしている。
   
 少しして   
  「あの......」
 少し言いづらそうに克也は切り出した。
  「岬ちゃんはここに住んでるんでしょ?だったら......『ともや様』に会ったこと、ある?」
 克也の純粋な問いに、思わず答えに詰まる。
   
  『確か水皇さんは克也に、克也の両親である長夫婦と智也はしばらく一族の用事で泊りがけででかけている......って伝えたって......言ってたよね......』
 思い出しながら、なんとか違和感の少ない答えを探す。
   
  「あ、あたしはね、ここでついこの間から住み始めたばっかりなんだ。あたしが来た時には智也さんはもう出かけてたから、会ってないんだよね......」
 内心ものすごく焦りながらも平静を装い答えるが、少々声が上ずったような気もする。だが、克也はその微妙な心の揺れ動きには気づかなかったらしい。
   
  「そっか......」
 明らかに克也の様子がしゅんとなる。
   
  「克也は、智也さんとよく遊んだり―― するの?」
 『したの』と過去形で聞きそうになり、口に出す前に思いとどまった。
  「ううん。ともや様はいちぞくの『おさ』になる子だから、僕なんかが会っちゃいけないんだ......。だから、遊ぶことなんて、したくてもできないんだ......」
 そういう克也の表情は、諦めているようだった。声も平坦で抑揚がなく、用意された答えを棒読みしているようにも感じられる。
 心が子どもに戻ってからの克也はその年相応の無邪気な表情をみせていたが、今の克也は妙に大人びている気がした。
  『いや、これがいつもの克也なら別におかしくは......ないのかな』
 岬は自分でも混乱するのを感じる。
   
 でも、先ほどから諦めの表情をしつつも、克也がとても寂しそうに見えることに、岬の心はきゅっと締め付けられる。
   
  「智也さんに会いたいよね......一緒に、遊びたいよね......」
 克也の肩にそっと手を添える。
   
 岬の行動に克也が顔を上げ、首を動かして、一度肩に置かれた岬の手を見る。少しして、複雑な表情をしながら真っ直ぐに岬の瞳を見つめる。
   
  「克也と智也さんは、同じお母さんのお腹の中で育って、おんなじ日に生まれてきたんでしょ?お腹の中ではきっと一緒に遊んでたと思うのに、出てきたら遊べないなんて悲しいよね」
、 「そうかな。お母さんのお腹の中で遊んでたかな......」
 そう言う克也があまりに真剣だったから、岬も力をこめて答える。
  「絶対にそうだよ。きっと仲良く―― 、たまにはケンカもしたかもしれないけど、遊んでたはずだよ」
 励ますようにそう口にする。
   
  「そっか......そうなんだ。―― そう思ったら、なんか嬉しくなってきたな。今は遊べないけど、もっと大きくなったら、またお母さんのお腹にいたときみたいに遊べるようになるかなあ」
 目を輝かせる克也に、岬も嬉しくなる。
  「―― うん。きっとね!」
 その先の二人がどんな運命を辿るのかを少しは知っているだけに、少しためらう気持ちもあったけど、岬は明るく答えた。
   
  「―― とりあえず、今はあたしと遊ぼうか?」
 岬は、持っていたボールを克也の手にぽんと乗せた。
 克也は、満面の笑みを浮かべてうなずいた。
   
 それからしばらくは、克也とボールを投げ合ったり、シュートの仕方を教えたり、岬は笑って過ごした。
 心は幼い時に戻ってしまった克也だが、当たり前といおうか、身体能力は高校生のままなので、ある程度のことはちょっとやってコツをつかめば大抵できてしまう。
   『克也ってあまり表に出そうとしないけど、運動神経は悪くないんだよね......。そういえばあたし、克也とこんな風にバスケやったことってなかったなあ』 
   
 日陰にある大きな石に座りながら、持ってきた麦茶を渡す。
 さすがに真夏の屋外でのスポーツは体力も消耗する。去年までの夏休み、体育館内ではあったものの長時間練習に耐えてきた岬にとってはなんとかなる程度。でも、普段スポーツを続けているわけではない克也にはちょっときつそうだった。
   
  「そろそろ、中に入る?」
 岬が聞くと、克也は一瞬動きを止める。そして、
  「やだ」
ふるふると首を振った。
     
  「でもさ、こんなに暑いし、ずっとこのままじゃあたしも克也も倒れちゃうよ」
 諭すような岬の言葉に克也は唇を引き結んだ。
 少しして、ぽつりとつぶやく。
    
  「中に入っても、岬ちゃん、一緒にいてくれる?」
 消え入りそうな声。
   
  「克也が、一緒にいていいって言ってくれるなら、いつでもそばにいるよ」
 笑って答える岬に、克也の瞳が輝く。
 ここまで分かりやすいと、なんだか不思議な気持ちになる。でも、正直に『一緒にいて』と言われて、なんだか岬には嬉しい気もしたのだ。
   
  「よかった!だって岬ちゃん、僕のこと好きじゃないのかと思ってたから......」
  「ええっ!?なんで!?あたし、克也のこと好きじゃなくなんか、ないよ!?」
 思ってもみない言葉に、岬は思わず声をあげてしまった。
 克也は目を丸くして口を開けたまま固まっている。
   
  「あ、ごめん、大声出して......」
 つい力が入ってしまったことを岬が謝ると、克也はひとつごくりと唾を飲み込んだ。そして、再び口を開く。
   
  「......なんかね、会った時からずっと―― 岬ちゃんの心から『違う、違う。あなたじゃない』って言葉ばかり聞こえてたから......。だから岬ちゃんは、誰かと『違う』僕のことは、嫌いなのかと......思ったの」
 その瞬間、岬は冷水をかけられたような衝撃を受ける。   
 直接口に出したことはなかったが、確かに目の前の心の幼い克也に違和感を感じ、『自分の知っている克也じゃない』と受け入れがたかった自分がいたからだ。
   
 克也は人の心に関する力に長けているとこの間、聞いたことを思い出す。
 人の心を細かに読むとまでいかなくても、その何かを感じ取ることができるのかもしれない。
   
 急に黙ってしまった岬に、克也は泣きそうな表情をした。
  「ごめん、ごめんなさいっ!」
 謝って叫ぶ克也の手が小刻みに震えていて、岬ははっとした。
  「ど、どうしたの?いいよ、謝らなくて!」
  「だって......、人の心が見えても、それを言っちゃいけないって、蒼嗣のお父さんにいつも怒られてたのに......!ごめんなさい、岬ちゃん、もうしないから......もう言わないから、だからこれ以上、嫌いにならないで――」
  そう言って目をぎゅっと閉じ、岬の腕を掴んだ克也の手は、震えたままだった。
   
 岬は、震える克也の手の上に、そっと反対の手を置いた。
 はっとしたように克也が顔を上げると、ちょうど瞳と瞳が同じ高さになった。
   
  「あたし、克也のこと嫌いじゃないよ。心を当てられちゃったのも、ちょっとびっくりしたけど......なるほどなって、思った」
 そう言って微笑む。戸惑う克也の心を示すように、その瞳が揺れている。
  「あたし、ずっと今の克也ともう一人の人を比べていたから」
  「もう一人の人?」
 無邪気に尋ねる克也に、少しだけ岬の心はざわめくが、あえてそれには触れず、言葉を続ける。
  「うん。でも、そんなの意味のない事だって、今日気づいた。だって、克也は克也だもんね。あたしは克也をまるごと、受け入れようって決めてたはずなのに」
   
 そう。
 幼い頃の―― 自分の知らない克也を知りたいとずっと思ってきた。それなりの覚悟もできていたはずなのに、目先のことばかり見て、自分の知っている克也じゃないと、勝手にショックを受けている自分がいた。
 でも―― 、 
     
  「こうして、今でも克也に『一緒にいてほしい』って言ってもらえて、一緒に過ごせるなら、こんな幸せなことはないのに―― ね」
 そう言って、克也の手の上に重ねた手のひらに力をいれて握る。自分の『克也を大切に思う気持ち』がこの手を通して伝わることを願って。
   
  「岬ちゃんは、僕のこと、好きなの?」
 ストレートな言葉に、岬の心臓が大きく跳ねた。
   
  「―― す、き......好きだよ。―― 大好き」
 こんなストレートな言葉で言うのは気恥ずかしかったけれど、今は自分もはっきり言わなければと思った。
 岬の言葉に克也の表情に安堵の色が広がる。
  「よかった......。岬ちゃん、嫌わないでくれてありがとう......」
 今の、幼い克也が嫌われることを極度に怖がるのは、実の両親と離れて育てられた―― 、いや、今の克也にとっては育てられて『いる』せいなのか。
   
  「でも確かに、もう心は読まないでね。なんていうか ―― はずかしいから」
 笑って肩をすくめると、克也の顔に笑顔が戻った。
   
  「でも一度だけ......今だけお願いしようかな。―― 今日は......どう?今日も、今までみたいに『違う』って、そう聞こえる?」
 おそるおそる聞いた岬に、克也はしばらく岬を見つめると、へへ、と声を出して笑った。
  「今日の岬ちゃんからはね......『やっぱりちょっと違うけど......でも僕のこと好き』って聞こえる」
  「ほんと?よかった」
 心からホッとする。
   
 二人は、そのまま自然に手を繋いで、しばらくその場に留まっていた。
 夏の熱気があたりに漂っていたけれど、しばらくそうしていたかった。

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