紐解かれた記憶(3)
それから三日――。
克也は毎日、一日の大半を岬とトランプをしたり、ボール遊びをしたりして一緒に過ごすようになっていた。
『あれから、心の距離は縮まってきたようには思うなあ。―― って言っても、お友達としてだけどね......』
自分で自分につっこんで肩をすくめる。
何事もなく平穏な日々が過ぎていたが、それが逆に怖い。
自分は『闇獏』を精神に送り込まれてすぐに幻影に苦しめられたけれど、克也の場合は心が幼い頃に戻ってしまったこと以外に今のところは変わったことはないように思える。
『案外、吉沢鷹乃の術も失敗してたりしてね』
姿が高校生なのに言動が幼い、という違和感は残るが、克也が苦しむくらいなら、このまま穏やかな日々が続くのも、もしかしたら悪くないのではないかとちょっぴり思う自分もいるのだ。
『克也、遅いなあ』
今日はボール遊びがしたいということで、バスケットゴールの前で待ち合わせをしているのだ。
「母屋まで迎えに行こうかな」
そう思って、岬が歩きかけた時だった。
ざっ、という砂の擦れる音がして、建物の影から克也が姿を現した。
「克也?」
顔を上げて名を呼ぶが返事がない。
様子がおかしい。
ひどく何かにおびえた様子で、よろよろと、今にも転びそうになりながらこちらに近づいてくる。
「どうしたの?どっか痛い?」
岬は駆け寄り、克也の両ひじの辺りに手を当ててその揺れる瞳を覗きこんだ。
姿は高校生ではあっても、最近の克也の言動が幼いために、自然と幼い子どもに対する接し方になってしまう。
岬の顔を見るなり、克也はふらりと岬の方に体を傾けると、膝からその場に崩れ落ちた。
その様子に、岬は『何かよほどのこと』が起こったのだと直感した。
揺れる瞳は宙を彷徨い、克也の唇は何かを呟いた。
だが、それは声にならず、ただ唇だけが動いたに過ぎなかった。
「克也?どうしたの?!」
聞いても、ただ魂の抜けたように呆然として、唇だけを震わせる。
何かを言いたいのに、言葉にならない、そんな様子だった。
「克也、っ、お願い!どうしたのか、教えて!」
思わず克也の肩をつかみ、体を揺らす。
「お願い......あたしは味方だから!何があったのか話し―― 」
岬の言葉の終わりにかぶるように、克也がもう一度口を動かした。
「ぼ......く、は」
その瞳のように、言葉も―― 揺れる。
「......僕は......死、んでもいい、の?」
『死』という言葉に岬はひやりとした。
とっさに返す言葉が、出てこない。
『とうとう、始まってしまった......?』
絶望的な気持ちに、めまいすら覚える。
「僕......死んだら、ために、なる......?」
感情のこもらない声で克也が言った。
「どうして......なんでそんなこと、言うの?誰かに何か言われたの!?」
克也の体を支えながら問う。
「お父さん......」
「お父さん?蒼嗣の?それとも本当の?」
視線を彷徨わせた後、克也は呟く。
「ほんとうの、お父さん......」
―― 幻影だ。
だって、克也の本当の父親である久遠智皇は、すでにこの世の者ではないのだから。『今』現実に克也に対して何かを言えるわけはない。
「お父さんがね、言うの。克也、おまえは影だから......いつか...いつか...」
その先の言葉がなかなか言えない。
岬は、そんな克也の両手を握り締める。
「おまえは......、ともやの『かげ』だから......ともやのために......死ね、って―― 」
そう言い終わるか否かのうちに、克也はガタガタと体を震わせる。
「な......っ......」
それを聞いて岬は、全身が雷に打たれたようだった。
克也が見たもの。それが全て過去に実際に起きたことなのか、それとも増幅された負の感情が生み出したものが混じっているものなのかは分からない。だが、全く『元』のない幻影はうまれないはずだ。
だとしたら ―― 。
『こんなことって――』
悲しさと怒りと複雑に絡み合ったなんともいえない思いが、岬の胸に広がる。
三、四歳といえば、一般には親から両手で抱えきれないほどのたくさんの愛情を受けて育つ時期だ。それなのに、克也はこんな思いを抱えて、この時期を過ごしたのかと思うと、胸が締め付けられる。
目の前の克也の顔が、自分の涙で揺れる。
「お父さん、―― お母さん、僕はいついなくなっても、いいの? いなくなっても、誰も困らない? いついなくなってもいい、いらない子なの......?」
天を仰いで克也は呆然と呟いた。瞳に移るもの全てが意味のないもののように、一点だけを見つめている。そこに幻影が視えているのか。
そばにいる岬すらいないもののように。
「―― っ、そんなわけないじゃない! いついなくなってもいい子なんてこの世にいないよ!」
思わず岬は叫んでいた。
「でも―― お父さんも、お母さんも言ったよ? 僕―― 克也は......『死ぬために生かされてる』って。『蒼嗣』のお父さんも、お母さんも......ただ、ほんとのお父さんに......『命令』されたから僕といっしょにいてくれるだけだ、って。―― ともやが『ほんもの』で、僕が『かげ』だから―― 。だから僕、ともやの代わりに死ななきゃいけないんだ......」
堰を切ったように溢れ出る言葉を紡ぎだす克也の、瞳の焦点は合っていなかった。ただ、宙をぼんやり見やったまま、うわごとのように呟く。
「やめて......!」
岬はうずくまる克也を、両腕に力をこめて抱き寄せる。
以前、岬が自分の罪に耐えられずに命を投げ出そうとした時に克也がしてくれたように。
あの時、自分がどんなに酷く、滅茶苦茶なことを言っていたのか、今、実感として分かる。
岬のぬくもりを感じたためなのか、どこかぼんやりと遠くを見つめていた克也の瞳がゆっくりと焦点を結んだ。そして、自分を抱きしめる岬へと瞳を動かす。
「死ぬための命なんてない。生まれてきたからには、絶対に生きて幸せになる権利があるはずなんだから......。少なくとも、あたしは―― 克也に生きていてほしい。生きて、あたしのそばにいてほしい。どんな姿でもいいから。たとえあたしの思いが通じなくてもいいから――、生きていてくれれば......それでいい」
「み、さき......ちゃ......」
克也は岬の名前を呼び、自分を抱きしめる岬の肩に手を回し、肩のあたりでぎゅっと抱きしめ返した。
「......い」
「え?」
聞き返す岬に、克也は瞳をぎゅっとつぶったまま、今度ははっきりと口にした。
「怖い......」
振り絞るように、克也は呻いた。
「僕、死にたくない......。死ぬなんて怖い......!嫌だよおっ!―― 僕......死にたくないよお......っ」
それは心の奥深くから響く―― 魂の叫びのようだった。
「克也―― 、......っ......」
岬の肩を掴む克也の指が服の上からでも肌にくい込み、岬は思わず顔をしかめた。
いくら心が子供に戻ったといっても、身体は立派な高校生男子なのだ。それに加え、今の克也は感情が制御できていないために思った以上の力が出てしまっていた。
息も苦しいほど抱きしめ返される。
けれど、そんな痛みなど今の岬には気にならなかった。
克也が心に受けた痛みに比べたらこんなことは、何でもないと――、そう思えた。
「克也は、死なないよ」
強い決意とともに岬はそう口にする。
「克也は死なない。あたしが―― 、あたしが、死なせない」
言葉に力が宿ったように、自分でも不思議なほど心の波が静まってくるのを感じた。
「あたしには、克也が必要なの。大事なの。だから......お願い。死んでもいいなんて、そんな悲しいことは、言わないで。克也のお父さんやお母さんの代わりにはなれないけど......それでも――。 あたしじゃ、ダメかな? あたしが克也を必要としているってことだけじゃ、ダメなのかな......?」
岬の言葉に、克也は顔をくしゃりと崩した。泣いてこそいなかったが、それでも『泣いて』いるような表情だった。
「ううん......ダメじゃ、ない......」
克也は、岬の肩をぎゅっと抱きしめたまま瞳を閉じる。動揺が少し和らいだのか、先ほどよりは力が緩められている。
「僕......岬ちゃんが......僕のこと大事って言ってくれるんだったら―― いい......」
そう言って少しだけ体を離し、じっと岬を見つめる。
「だから、岬ちゃん......僕から、離れていかないでね。岬ちゃんは、僕を置いていかないで―― 」
切なく揺れる瞳で、そう懇願する。
「もちろん......どこにもいかないよ。あたしは、ずっと―― 克也のそばにいるよ......」
岬は、克也と視線を合わせて微笑んだ。
克也は、じっと岬の瞳を見つめ、少しだけ何かを考えるような表情をした。そして―― 、
「僕......、岬ちゃんが、好き」
真っ直ぐに岬の目を見て、克也は言った。
岬の心臓はどきりと大きく鼓動を打ち、頬に熱が集まるのを感じる。
『心が三、四歳の克也って、ストレートすぎて心臓に悪いよ......』
「あ、あはっ。ありがとう。あたしも、克也のこと、好きだよ」
誤魔化すように笑いながら、努めて冷静に返す。
すると、克也が少し複雑な表情をした。
「僕―― 本当は......ほんとのお母さんも、それから蒼嗣のお父さんも、静枝母さんも、好き......。りえのことも、好き」
克也の無邪気な言葉に、岬は内心苦笑いをする。
『こっちは克也が言うからついドキドキしちゃうけど、今の克也にとってはあたしへの好きも、家族への好き、とやっぱり同じレベルだよね』
だが、克也は少し間を置くと、ふい、と少し岬から視線をずらした。
「でも......。岬ちゃんのことを好きなのはね......、そういうのとは何か―― 違う気がする......」
そう口にする克也の顔は何だか紅く見える。
「―― 違う?」
岬は聞き返した。
「うん......」
そう言って、克也は、再びまっすぐな瞳を岬に向けた。
だが、見せた表情が、妙に大人びていて、岬の心臓はいっそうどきりと跳ねた。
次の瞬間――、岬の視界いっぱいに克也の顔が広がったと思うと――
『えっ......』
唇に、『何か』がそっと触れる感触 ――。
―― それが克也の唇だと気づくまで、ちょっと時間がかかった。