紐解かれた記憶(4)

 克也は、見上げるような体勢で岬の唇に自分の唇を一瞬触れ合わせると、すっとそのまま後ろに飛びのいて、視線を地面に移した。
 岬の唇をかすめるように―― 、けれど確実に『意識して触れ』られた克也の唇。
 一瞬の出来事に、岬は目の前で俯く克也に釘付けになった。何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。頬が一気に熱くなる。
   
 吉沢鷹乃の術によって三、四歳の頃に記憶が戻ってしまった克也。
 まさか今、こんな行動に出るとは岬も思っても見なかったために、どう対処していいか分からない自分がいた。しかも、本当に子どもの姿ならいざ知らず、その姿は高校生のままの克也なのだ。冷静でいろという方が無理な話だ。
   
  『ちょ、ちょっと待って。......お、落ち着いて岬』
 落ち着くように、自らの頬を両手で押さえる。けれど早鐘を打つ心臓はなかなか静まらない。   
  『克也とは、何度もキスしてるし、もっと......なキスだってしてるでしょっ 』
 自分に言い聞かせてみる。
   
 術によって記憶を幼少時に戻されてしまった克也の幼い言動を目の当たりにし、今は恋人らしいことはできないのだと、諦めていた。
 それなのに―― 
   
  『どうして?』
   
 嬉しいような、恥ずかしいような、不思議な気分だ。   
  『なんか、初めてのキスのときみたい』
   
 ぼーっとほわほわとした気分に浸っていると、克也が俯いたまま謝った。   
  
  「ごっ......ごめんなさい!!」
 地面に手をついて深々と頭を下げ、土下座のような状態で克也は謝った。   
  「や、やだなあ!謝らないでよ」
 岬は明るく返した。謝られると、逆にどう反応したらいいのか分からなくなる。
  「......だって......。僕、岬ちゃんに『しても良い?』って聞かなかった......」
   
  『ええっ!?そんなこと――、しても良い?なんて聞かれても逆に困るんだけど!』
 純粋な克也の言葉に対し、心の中でツッコミながら岬は作り笑いを浮かべた。
  「だ、大丈夫大丈夫!あたし、克也にだったら、いつでも大丈夫だよっ」
 どさくさにまぎれて微妙に恥ずかしいことを言ってしまっている気がする。
   
 地面に手を着いたまま、克也は顔だけを上げた。     
  「僕......体がおとなみたいに、なってるでしょう?」
  「あー、う、うん?」
 克也が何を話そうとしているのかが分からず、岬はとりあえず相槌を打った。   
  「おとなになったら、女の人にむりやりそういうこと、しちゃいけないって、前にりえが言ってたから」
 至極まじめな顔で克也はそう口にする。
 岬は驚きに思わず後ずさりしそうになった。  
  『り、利衛さんっ!?いつそんなことを克也に!?――って、克也が三、四歳ってことは、三歳違いの利衛さんは小学一年生かそこらじゃない?なんてませて......って、いや、それより、そんな姉弟でそんな話になるってどういうシチュエーションよ!?』   
 一人、心の中で焦る岬を、克也は心配そうに見上げて覗き込んでいる。岬が何も言わないことで、怒っていると思っているのかもしれない。
   
  「あの......そのことはもういいから。気にしないで、あ、あっち行こうか?」
 微妙な雰囲気に耐え切れず、とりあえず岬は話題を変えようとしてみた。
 が。
  「ううん。僕、もう少しここで反省してる」
  「............」
   
 克也はそのままの体勢を崩そうとしない。
   
  『頑固なのはこの頃からそうなのかあ』
 岬は深呼吸して、その後、膝立ちになって克也を見つめた。地面に手をついた状態の克也を、岬は見下ろす。   
  「あのね、克也」
  「うん......なに?」
 呼びかけに、克也の申し訳なさそうな瞳が岬を見上げた。
   
 岬は微笑むと、克也の肩に触れ―― そのまま克也の唇に、自分の唇を触れさせた。   
 少しして唇をゆっくりと離すと、赤い顔の克也は驚いたように岬を見つめ、言葉を失って固まっていた。
   
  「これで、おあいこ。―― でしょ?」
 岬は精一杯恥ずかしさを隠し、にこりと笑った。
    
   
   ******   ******
   
  「そっかあ。そんなことが......」
 母屋一階の西側、離れへと繋がる通路に一番近い和室で、利衛子がため息と共に呟く。
 部屋の奥にかけられている木製の時計は、午後九時を指している。
 目の前には、克也が規則正しい寝息を立てて横たわっている。眠りに入っているはずなのに、その克也の手はしっかりと、利衛子の反対側に座る岬の指先を掴んでいた。
   
 この部屋に三人でいるのは、今日は克也がどうしても岬と離れたがらなかったからである。
 岬と一緒に寝るんだと、あまりにもかたくなに言い張る克也に周りが負け、岬と共に寝ることになったのだ。
 ただ、岬と克也の二人だけではいろんな意味で問題だということで、利衛子も二人と一緒に寝ることになったのである。
  
 頷く岬に、利衛子は続ける。
  「あの頃―― 克也のことを、産みの母である澄香様は時々連れ出していたの。その中で―― 長から、そんな話をされていてもおかしくないね......。それに、うちの父と母のことも――長に命令されたから一緒にいるだけ、だなんて―― ......。」
  「利衛さん、そんなこと、ないですよね......?命令されたから、一緒にいるだけ、だなんて」
 岬は眉を寄せて尋ねた。
 利衛子はにこりと微笑む。
  「そんなことあるわけないよ。もちろん、最初は長の命令で克也を育てることになったのは本当だよ。でも、あたしから見て、両親は本当に克也を大事に思ってた。娘のあたしが言うんだから間違いないよ」
  「でも、克也は―― そうは思ってなかった......」
 岬は克也の長いまつげを眺めながら、呟いた。
  「そうだね......。あの頃、克也は何も言うことはなかった。確かに、あの頃から、微妙に雰囲気が変わってきたのは確か。だけど、それがそんな大変な思いを抱えていたせいだなんて気づいてなかった。両親もおそらく―― 少し様子はおかしいとは思っても、正確な理由まではわからなかったんだと思う。もし分かっていたら、そのままにするはずがないから」
   
  「じゃあ、克也は一人で―― 」
 その気持ちを想像するとたまらなくなって、岬は両手で自分の腕をさすった。
   
  「そうだね......誰にも、うちの両親にさえも何も言えずに、一人で抱え込んでいた、ってことになるね......」
   
 岬と利衛子の間に重い沈黙が流れる。
 実の親に言われたそれらの言葉は、幼い心にどれほどの衝撃を走らせたのか分からない。
 けれど、その後も表面上は大きな変化をまわりに感じさせていないのだとしたら、幼い克也はその心をどう処理して自分の中だけに閉じ込めたのか。そしてそのことが克也の心にどれほどの暗い影を落としたのかは計り知れない。
   
  「あの頃には、今の岬ちゃんみたいに、この子の思いを受け止めてくれる人がいなかったんだよね。もしかすると、うちの両親が気づいていたら―― とも思うけど、そんなことを今更考えても意味がないよね。何にせよ、あの頃、克也が心に傷を負いながら、それを誰にも悟られずに生きてた、ってことは事実なんだから」
 利衛子は過去に思いを馳せるように、遠くを見つめるような目をして言った。
   
  「でも今、岬ちゃんがいてくれてよかった。『闇獏』だっけ?そんな得体の知れないもののせいで、そのマイナスの感情は増幅されてるんでしょ?そんな状態で、あの頃みたいに誰にも言えないとしたら―― 考えただけでも恐ろしいよ。あたしは詳しくは分からないけど、多分今日岬ちゃんに話せたことで、そのダメージが最小限で済んだんだと思う。今日一日の、岬ちゃんと片時も離れたくないっていうほどの異様なまでの執着も―― 今の克也にとって自分の存在をそのまま受け入れてくれる岬ちゃんから離れたらどうなるかわからないっていう不安を解消するための、本能的な自己防衛策なのかもしれないね」
 利衛子は岬に微笑んだ。
   
  「あたしの存在が少しでも克也のためになるのなら、嬉しいです」
 自分の存在が克也を救えているとすれば、嬉しい。けれど、その後にやってきた不安に、すぐに心が沈んでいきそうになる。
  「でも――、あたしは怖いんです。吉沢鷹乃は、『闇獏』に取りつかれた者は、『増殖したマイナスの感情に苛まれ続け、弱った心が生んだ狂気に呑み込まれて死ぬ』って言ってたんです。もし今回克也が見たものが百パーセント事実だとしても、その後も普通に振舞うことができていたんですよね? だったら今回のことはまだ、克也にとって何とか耐えうることだったんだと思うんです。でも、鷹乃があれほど自信を持って言うほどの、克也の心の闇―― 。何だか克也はもっと恐ろしいものを抱えている気がしてならないんです」
   
 今の自分にはまだ見えない何か。それが怖い。岬は視線を自分の膝へと移した。
   
  「それに―― 、吉沢鷹乃があれから全くこちらに接触してこないのも気になります。もちろんあたしたちが水皇さんたちのシールドの張られたこの久遠の屋敷から出ていないというせいもあるんでしょうけど、そうなることは向こうにも十分予想できたことだと思うんです。それに対しての策を考えずに闇雲に術をかけたとは思えない。術をかけておいてここまで全く動きを見せないって事は、絶好の機会を―― あたしたちがここから出なければいけなくなるその時を、窺っているような気がして怖いんです」
 岬は唇を噛みしめた。
  「岬ちゃん」
 気遣わしげな利衛子の声が聞こえ、岬は慌てて笑顔を作った。
  「なんて――。 全部あたしの取り越し苦労ならいんですけどね」
   
 岬は収まらない胸騒ぎの苦しさに、思わず克也と触れていない方の手で自分の胸を押さえた。
 目の前で静かに寝息を立てる克也の寝顔に、切なさがこみ上げる。

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