紐解かれた記憶(5)

 そのまま利衛子と二人で克也の寝顔を見つめていると、克也が身じろぎした。
 岬と利衛子はお互いの瞳を見合わせる。
    
 瞳は閉じたままだが、克也は眉間にしわを寄せ、何か言いたそうに口を動かす。その身が少し震えているような気がして、また克也が何か嫌な幻影を見ているのかと思うと岬はどきりとする。
   
  「み......さき......」
 はっきりと音となり聞こえた自分を呼ぶ声。たまたま名前の後に付く『ちゃん』が聞こえなかっただけだとは思うが、それが以前のように呼ばれたような気がして、岬の心臓はまたひとつ跳ねた。
   
 その自分の言葉が引き金となって克也が瞳を開ける。
 そしてその瞳が岬を捉えると、克也はホッとしたように微笑んだ。
   
  「みさき、ちゃん......よかった。そこに、いてくれたんだ......」
 握ったままの岬の指を、さらに自分の方へと引き寄せる。
  「夢でね、悪者がやってきたの。それで岬ちゃんが襲われそうになったから、僕、助けようとしたんだ。でも、全然かなわなくて......。それで、しょうがないから僕は岬ちゃんと逃げるんだけど、悪者がすごく足が速くて、すぐに追いつかれちゃったの......」
  「そうなんだ......それは、怖かったね......」
 子どもらしい夢に、岬は微笑んで答えた。
 途端に克也の表情が曇り、岬は笑ってはいけなかったのかとちょっと焦る。
  「僕......」
 言いながら、克也の手は岬の指をぎゅっと力を込めて握った。
   
  「僕、体だけじゃなくて、もっとちゃんとおとなになりたい。強くなりたい。それで、岬ちゃんを、守りたい」
 真っ直ぐに岬を捉える瞳に、岬は頬の温度が急上昇してしまうのを感じる。
   
 そんな今の克也がとてもいじらしく思えて、岬は微笑んだ。 心が幼くても何でも、克也はこうして自分を守ってくれようとしている。その気持ちがとても嬉しかった。
   
  「ありがとう。でもね、克也はもう十分、あたしを守ってくれてるよ......」
  「うそだ。だって、悪者に僕、全然力で勝てなかった......」
 不満そうな克也に、岬は静かに首を横に振った。
  「あたしはね、克也があたしのそばにいてくれるだけで安心していられるんだよ。克也と一緒にいられる、それだけで元気になれるし、頑張ろうって気持ちになるの。 力があるとかないとかは、本当はどうでもいいことなんだ。大好きな人がそばにいる、それってすごいことなんだよ。そこにいてくれるだけで克也があたしの元気のモトなんだよ」
   
 岬の言葉に、克也はしばし目を丸くして――、やがて少しはにかんで、嬉しそうに笑った。
   
 再び克也が眠りについたころ―― 先ほど黙って二人のやりとりを黙って聞いていた利衛子がぽつりと呟いた。

  「『岬ちゃんを守りたい』かあ。実際のその年の頃よりも、今の克也は相当おませさんな気がする。術にかかっててもやっぱり心の底に高校生の克也が僅かながら残ってるんだろうね」
 利衛子はそう言いながら、にやにやと含み笑いを向けたが、その笑顔はすぐに寂しそうな表情に取って代わる。
  「あの頃―― 今の岬ちゃんみたいに、克也が心の内を全部打ち明けられる人がいたなら、この子の人生はもっと穏やかなものになっていたのかな......」
 なんとも答えられずに岬が黙っていると、利衛子はひとつため息をつく。
  「これもまた、考えても仕方がないことだね」
 利衛子は岬の瞳を見つめた。
  「でも......、なんだかんだ言ってこの子は、幸せだよ......。少し遠回りはしたけど、岬ちゃんみたいな、自分の全てを委ねられる相手に出会えたんだから。こんなにもお互いを必要とできる相手にめぐり合える確率なんてそうそうないよ。それも、高校生のうちになんて」
  「そう、ですね」
 岬は視線を克也から動かさずに頷いた。
 確かに、この年でそこまで思える相手にめぐり合えることは珍しいことなのかもしれない。こんなに心の底から愛しいと思える人とこの世で出会えるのは、一体どれくらい分の一の奇跡なんだろうか。
 所詮はままごとのような恋愛なのだと大人たちは笑うかもしれないけれど、今の自分にとっては、一瞬一瞬が真剣だ。克也と過ごすその全ての時間が大切で、愛しい。
   
 克也が自分と同じ時間を生きていてくれている、何よりもその奇跡に感謝せずにはいられない。
   
  「あたし、ずっと疑問だったんです。どうして長の子供である克也が生まれてすぐに里子に出され、隠されて育ったのか。でも、ここにきてようやく分かりました。克也は双子の弟だったから、兄の智也さんの『影』―― つまり影武者として育てられたんですね......?」
 岬が利衛子へと視線を移すと、利衛子も神妙な面持ちで頷いた。それを確認して、岬は言葉を続ける。
  「そのことが分かった時―― 、生まれた時からそんな過酷な運命を背負わされて......、よく今まで生きてきたな、って改めて思ったんです。今、利衛さんは、あたしに出会えて克也は幸せだって言ってくれましたけど、あたしこそ、克也にめぐり合えたことが奇跡みたいなことで、すごく幸せです。だから、今まで克也を生かし、守ってきてくれた全ての人に、本当に感謝したい。そういう意味で、あたし、利衛さんにもそのご家族にも、本当に本当に感謝してるんです。克也の人生にとって、長く育ててくれた蒼嗣の家の方たちの力ってかなり大きいと思うから」
   
 岬の言葉に、利衛子は泣きそうな顔をしたような気がした。いつも元気で前向きな利衛子が見せた珍しい表情に、岬ははっとする。
 まだ自分は知らないけれど、克也と蒼嗣家の人々の中にもきっと様々な葛藤など、言葉に表し尽くせないような複雑なものがあったに違いないと岬は思う。
  『きっと利衛さんにも、複雑な思いがたくさんあるんだよね......』
 岬はじっと利衛子の様子を見つめた。
    
 やがて、ひとつ長い息を吐くと利衛子は岬に微笑んだ。   
  「ありがとう岬ちゃん。そういう見方ができる岬ちゃんだからこそ、あたしも安心して克也を任せられるんだ」
 そこで利衛子は微笑みを消した。その表情は真剣なものに変わる。
  「生まれる前......克也の本当の母である久遠澄香様のお腹の中にいるうちから、双子のうち先に生まれた方が長に、そして後から生まれた方はその影武者として生きることを、当時の長である克也の本当の父親に決められていたんだ。」
   
  「そして、智也さんが先に生まれ、克也が後に生まれた......」
 呟く岬に対し、利衛子は神妙な面持ちで頷いた。
  「影武者がいることを奈津河に知られることのないように、徹底して影武者である克也は隠されて育った。本家であるこのお屋敷―― その頃は水皇さんじゃなくて、克也の父である智皇様のものだったんだけど、この久遠邸に一歩も足を踏み入れるなと堅く言われていたほどにね。だからあたしたち家族は、克也を預かってからしばらく、都心からは離れた場所にひっそりと住んでたんだ」
  「そうなんですか......」
 真剣な表情で頷く岬の瞳を利衛子はじっと見つめ、しばし沈黙する。
   
  「岬ちゃん、さっき―― 克也がもっと恐ろしいものを抱えている気がするって言ってたけど――、もしかすると、それは澄香様とのことかもしれない......」
  「澄香様―― 、克也を産んだお母さん?」
  「そう。克也は―― 自分の目の前で澄香様を亡くしているから。それも―― 最悪の形でね」
   
 その後に利衛子の口から語られた衝撃的な事実に、岬はしばらく言葉を返すことができなかった。
      
   
   ******   ******
   
   
 ―― 瞳に光を感じた気がして、心地よい眠りについていた岬の意識は急速に上昇した。
   
  『朝?』
 岬が目を開けると、目の前に克也の端正な寝顔があり、思わず声を上げそうになった。だが、すぐに昨日隣で寝たことを思い出し、ひとつ深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
   
  『まつげ、長いな』
 克也の寝顔をぼーっと見つめる。
 視線を横にずらすと、障子の向こうが青白く、夜明けを告げていた。
 ゆっくりと体を起こすと、利衛子はもういなかった。布団がきちんと端にたたまれており、いつもの利衛子の行動パターンからすると、日課である早朝ジョギングに出かけたのかもしれない。
   
 障子の桟の規則的な並びを見つめながら、昨日利衛子に聞いた話を思い出し始める。
 そんな時、
   
  「み、さき、ちゃん」
 急に名前を呼ばれて思わず飛び上がりそうになるほど驚いた。
 視線を傍らに戻せば、いつの間にか克也の目が開いていた。
   
  「おはよう。まだ早い時間だよ」
  「うん。でももう目が覚めちゃった」
 そう言ってにこりと笑う。
  「気分は、どう?どっか痛いとこ、ない?」
 少しの変化も見逃さないようにと、つい聞いてしまう。
  「ううん、どこも痛くないよ」
 克也は横になったまま首を振った。
 そのまま、真剣な表情で見つめられるものだから、途端に岬の気持ちが落ち着かなくなる。
   
  「あ、あたし!着替えようかなっ。あ、でも着替え自分の部屋に置いてあるし......部屋に戻って着替えてくるね!克也はここで待っててくれる?」
 落ち着かない気持ちを紛らわそうと不自然なほど明るく言ってしまった。
 そんな岬の言葉に、克也の表情が曇る。
   
  「あの......。 付いて......行っちゃだめかな?」
  「えっ?」
 岬はどきりとした。
 いくら子どもの心になってしまったとはいえ、着替えているところを見られるのはさすがに恥ずかしい。
  「うーん、ほら、克也は今、おとなの体だしっ、女の子の着替えてるところに一緒に入るのはさあ......」
 なんとか誤魔化そうとしたのだが―― 、
  「僕、岬ちゃんが着替えてるのは絶対見ないから。部屋のお外にいるから......」
 克也の表情は真剣だ。決して軽い気持ちで言っているわけではないことは伝わってくる。
  「克也......」
 その手はいつのまにか岬のTシャツの端をぎゅうっと掴んでいた。
  「岬ちゃんとずっと一緒にいたい。一人は、やだ。怖いから」
 その瞳は不安そうに揺れている。
 確かに、克也を一人にしておくのは、昨日のように術の影響が出てしまう可能性を考えると岬にとっても不安なことだった。
   
  『まあ、昨日あんなことがあったばかりだし......仕方がない、かあ』
 そう思い直し、岬は克也と一緒に離れにある自分の部屋に着替えに戻ることにした。

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