紐解かれた記憶(6)

 そっと和室を出て、そのまま離れへと続く通路を、克也と手を繋いで歩く。
   
 昨日の話では、水皇は抜けられない用事で朝に帰ってくると言っていたが、まだ帰ってきてはいないらしい。水皇に涼真も付き従って出かけているため、今屋敷にいるのは基樹だけということになる。といっても、そろそろお手伝いさんたちが出勤してくる時間ではあるけれど――。
   
 年季の入った床のせいか、通路が時折ぎし、と音を立てた。
   
 通路の終わりの扉を開け、離れの建物に入る。
 一歩入ったところで、克也は足を止めた。
 不思議に思い、岬も足を止めて克也を見ると、克也は眉根を寄せて何かを考え込んでいた。
   
  『そういえば、克也はこうなる前からずっと離れに来たがらなかったみたいだけど、何か、あるのかな......』
   
  「克也、大丈夫?もし何か嫌な感じがするとかだったらここで待っててもいいよ。超スピードで着替えてくるから!」
 傍らの克也を見上げると、はっとしたように克也が岬を見た。
  「ううん、大丈夫。岬ちゃんと一緒に行く。だって、一人の方が、怖いもん」
 繋いだ手に力が込められる。
   
 岬は『それもそうか』、と納得する。ここまで来たのだから、ここで一人放り出すのもなんだか可哀想だ。
  「分かった。じゃあ、一緒にいこ」
 ゆっくりと踏みしめるように二人は階段を登り始めた。
   
 上りきってすぐの岬の部屋。
 克也は先ほどの「見ない」という約束を守り部屋の外にいるというので、岬は急いで着替える。
  『その間に何かがあったら、大変だもんね』
 着替え終わり、そろそろ出ようかと言うとき、外で「岬ちゃん!」と克也の声がした。
   
  「なに?どうしたの?」
 慌てて扉を開けると、克也が目を輝かせて立っていた。
  「お母さん...お母さんの部屋......」
  「え?」
 岬が聞き返すや否や、克也は岬の手をぐいっと引いて走り出した。
   
 克也は二階の廊下の奥へと進んでいく。岬の部屋は二階に上がってすぐにあるので奥の方にはまだ行ったことが無かった。 真っ直ぐ続く廊下を直角に曲がると、途端に薄暗くなる。それはこの廊下にある窓が一つだけであり、さらにその広さに対して不釣合いなほど小さく陽の光があまりこの廊下に入らないことによるもののようで、少し異様な感じがする。
  『あたしたちの部屋の前にある窓はそんなことないのに、なんでここだけ......?』
 岬は何となく中條幸一に閉じ込められたあの閉鎖空間を思い出してしまい、克也と繋いでいない方の拳にぎゅっと力を入れた。
  『このなんかおかしな感じ......、克也は感じないの、かな?』
 克也をちらりと見るが、克也の表情からはそのような感じは窺えなかった。 
     
 廊下の突き当たりの部屋の前まで来ると、克也は岬を振り返り、満面の笑みを浮かべて言った。
   
  「岬ちゃん、ここね、お母さんのお部屋なんだよ!」
   
 岬は、一瞬何と言っていいのか分からなかった。   
 その一瞬の対応の遅れのうちに、克也は何のためらいもなく、そのドアを―― 引いた。
   
  「まっ、待って克也っ」
 制止は一歩遅く、克也と岬の目の前でその中が明らかになる。
   
 ―― 訪れた、一瞬の静寂。
   
  「あ......っ」
 先に声を上げたのは岬だった。言いながら思わず口元を右手で覆った。
   
 ドアを開けた正面にあったもの。
 それは―― 、
   
   
 仏壇だった。
   
   
 煌びやかではないが、凛とした美しさが伝わるような、深い茶の仏壇。
 その中央に置かれた遺影に、岬は釘付けになった。
   
 写っているのは可憐、という文字がぴったりくるような女性だった。緩やかにウエーブのかかった髪、形の良い眉と唇。そしてこちらに向けられた笑顔は、岬の良く知る人物にとてもよく似たまなざしをたたえていた。
 その写真を見れば、説明などなくともすぐに分かる。
   
  『克也に目元なんかがそっくり......。 多分この人、克也のお母さんだ......』
   
 とはいえ、克也に似てはいるが全体から伝わる印象は少し違っていた。ただ美しいだけではなく、女性らしいかわいらしさがある。それでいてその瞳の奥には、写真だというのに吸い込まれそうな強いものが感じられ、同性の岬も思わず見とれてしまうほどだった。
   
 だが、   
  「どう......して?」
 消え入りそうな克也の呟きが聞こえ、岬ははっと視線を克也に戻した。
 その場から動けずに立ち尽くす克也の背中から伝わる『何か』を感じ、岬の背に冷やりとしたものが伝う。
   
 克也はしばしそのまま口を閉ざして固まっていた。
 その沈黙が克也の動揺を表しているような気がして、何か声をかけようと思うのに口が動かない。
      
  「お母さん?」
 克也が呆然と呼びかける。
  「こういうところに入るのは、―― 死んじゃったひとだけ、なんだよ?」
 幼い克也にも、仏壇がどういうものであるかはきちんと分かっているのだ。もともと知っていたのか、それとも、心のどこかに残る高校生の克也の経験が混じっているのか。    
 克也は混乱する思考をまとめようとするように、自分の額のあたりに片手を当てる。
  「な、んで......っ、なんでお母さんが......!」
 一回り大きな声でそう口にして、岬を振り返った。
  「岬ちゃん、お母さん、お仕事にいってるんじゃないの!?ねえ!」
 その言葉には、苛立ちのような怒りのようなものも含まれているようで、岬はびくりと肩を震わせる。あまりにも突然訪れたこの最悪の瞬間に、岬もなす術を失っていた。
   
  「なんで?......、なんで......っ!?」
 克也の視線が空中を彷徨った。そして、がたがたと震え始める。
  「克也っ......ダメ......!ダメだよっ!」
 慌てて必死に呼びかけ、その手をひこうとするが、ものすごい力で拒絶され、岬はバランスを崩し、壁へとぶつかった。
   
  「お、かあさん?」
 克也はふらふらと仏壇の方に手を伸ばしながら歩いていく。そして、仏壇の目の前で崩れるように膝をついた。
  「あ......、ああ......」
 克也は呻き、そして両手で頭を抱える。その手が、指が―― 、まるで自分を痛めつけようとでもするように、克也自身を押さえ込んでいるのが分かった。
   
 克也の切羽詰った声がその場に響く。
  「どうして?どうして、お父さんと、ケンカしてるの!?―― 僕が......、僕が約束、破ったから? お屋敷に、来ちゃいけないって、言われてたのに......それなのに、ここに来ちゃったから!?」
 明らかに克也の目の焦点は合っていない。   
 けれど、克也には『何か』が見えている―― そんな目だと岬には分かった。自分が、鷹乃の術によってあの悪夢を見てしまった時のように。
       
  「克也、克也っ、お願い、今見えてるそれは本物じゃないよ!戻ってきて!」
 岬は必死で叫ぶが、克也は『ここにはない何か』を見ているようで視線を遠くに置いたまま、震えていた。
 岬は駆け寄り、克也を抱きしめる。克也はもう先ほどのように岬を突き放すようなことはなかったが、岬の存在は今の克也にとって何の意味もないように、何の反応も示さない。
   
  「どうしよう、どうしよう......っ!」
 岬ももうどうすればいいのか分からず、ただ力を込めて抱きしめる。
  『あたしは何もできないの?』
 無力感に呑まれそうになり、岬は一度瞳を閉じた。その時、
   
  「やめてっ」
 おもむろに克也が叫んだ。
  「お父さん!やめて......やめてよおっ!お母さんを、叱るのはやめて......! 僕が悪いの!お母さんは悪くない!僕、もう来ないから......もうお屋敷には来ないからっ!だから―― お母さんをぶたないで―― !!」
 振り絞るような声。
   
 『お母さんをぶたないで』という克也の叫びが、岬の心に突き刺さる。
 前長、久遠智皇。
 『影』に生きろと、克也の運命を決定付けた人。そして克也に対し、『本物のために犠牲になれ』という言葉を吐き、自分の妻に対しても――。
   
  『......どうしてそんなに冷酷になれるの......』
 見たことのない人なのに、克也の父親なのに、憎んでしまいそうだった。
 そんな間にも、克也の記憶はどんどんと悪い方へと進んでいるようで、克也の震えが激しくなり、岬ははっとする。
   
  「お、かあさん......、なに、してるの......?」
 今まで焦点の合わなかった克也の目が急に焦点を結び、じっと一点を見つめている。だが、見つめた先にはただ、微笑みを湛える遺影があるだけ。   
  「やめて......やめてよ......そんなもの持ったら、切れちゃうよ!危ないよ、っ!」
 克也の叫びに、昨日の利衛子の話が岬の脳裏に甦る。
   
   
  ―― 『克也はね、目の前で母である澄香様を亡くしているの。それも、最悪の形でね』
  ―― 『最悪の形?』
  ―― 『澄香様は、色々なことが重なって精神を病んでいてね。そしてある日、克也を連れて久遠の屋敷に行って......、智皇様と口論になったあげく、ナイフで自らの命を絶ったの』
   
   
 克也の目の前で、母親が自殺した―― 、利衛子の話で聞いた衝撃のその場面を、まさに今克也が悪夢で見ているとすれば、一気に事態が悪化するのは明らかだ。これはもしかすると本当に、岬がずっと恐れていたことなのかもしれない。   
  
  「克也、克也あっ!お願い!しっかりして!」
 岬にできることは叫ぶことだけだった。
 だが、それすらも意味がないことは、岬にも分かっていた。
   
   「やめて!おかーさん!やめてえええっ!」 
 ぶるぶると体を震わせ―― 克也は嫌々をするように何度も何度も首を振る。
   
 次の瞬間―― 、空間を切り裂いた叫びに、岬は心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受けた。
   
 耳が、痛い。
 そして心が。
   
 それほどまでに、克也の叫びが切なかった。
 悲しみや苦しみ、そしてそんな言葉だけでは片付けられないほどの複雑で激しい感情が、一気に噴き出したようだった。
 その場にあるものがカタカタと音を立てて振動し、仏壇に上げられている湯飲み茶碗が乾いた音を立てて割れる。壁が軋むような音もして、強大な力のほんの一部ではあるが克也の力の制御がきかなくなっているのが分かる。
   
 その後、克也は震えながら何度も首を横に振り、母親を求めて叫び続けた。岬には、その体をただひたすら抱きしめ続けることしかできなかった。 
    
   
 岬自身も絶望に沈みかけたその時―― 、遠くから、ばたばたと複数の足音が聞こえた。

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