賭け(1)

 あれから、克也の叫びを聞いた基樹、そして帰宅したばかりの水皇と涼真が駆けつけ、取り乱す克也はなんとか母屋へと運ばれた。   
 今は母屋一階の『離れ』に一番近い和室―― 今朝も岬たちが泊まった部屋の中央に克也は寝かされていた。克也があまりにも混乱して叫び続けるので、仕方なく今は鎮静剤を打って眠らせている。村瀬実流医師の第一弟子だという青年が克也の傍らであわただしく処置をするのを、岬はただ呆然と見つめていた。
 鎮静剤が十分に効くまでの間、克也はずっとうわごとのように「お母さん、死なないで」と繰り返しながら、うなされていた。
   
 まだ昼前だというのに、岬にとってはその何倍もの時間がたってしまったかのように思える。   
  「あたしの、せいだ......」
 誰に対してでもなく呆然と、岬は呟いた。
   
 高校生の克也は、『離れ』に来ることを明らかに避けていた。
 それが何故なのかは分からないにしても、『何か』があるのではないかということまでは思い至っていたのだから、今の不安定な状態の克也を連れてくるには、なおさらもっと慎重になるべきだったのだ。
  『それなのに、あたしは......』
 ちょっと引っかかりはしたものの、そのままにしてしまった。もっとちゃんと考えて、あそこで止まって他の方法を取っていたら、と思うと自分の不甲斐無さにいたたまれなくなる。
 高校生の克也が『離れ』に来たがらなかったのは、ここに母親の部屋があるということと関係していたのかもしれないと今では思う。だが、昨日の夜に克也と克也の母親についての話を利衛子から聞いていたのに、朝の時点では少しもそれと結び付けられなかった。それが情けなくて仕方がない。
   
 岬の呟きを聞き逃さなかった利衛子が岬の肩を抱いた。
  「岬ちゃんのせいじゃないよ、鷹乃の術にかかった以上、いずれこうなることは必然だったんだから......」
  「でもっ、あたしが無神経に『離れ』に克也を連れて行かなかったら―― こんなに早く克也が苦しむことにならなかったかもしれない」
 自己嫌悪に涙が出そうになる。   
  「ごめん、克也、......ごめんなさい」
 今は克也にも、謝る言葉しか頭に浮かんでこない。
   
  「岬ちゃん、ちょっと外出よっか?」
 岬の様子を見かねた利衛子に促されるまま、岬は部屋から出る。
 歩いている間も、まるで足が痺れた時のように感覚がない。   
 部屋から一歩出たところで、ふすまを閉めようと利衛子が一瞬離れた瞬間に、岬はふらりとバランスを崩した。そして向こうから足早に歩いてくる人物にぶつかりそうになった。
   
  「あ、ごめんなさ......」
  「いえ」
 岬が謝ろうとすると、見知った声が聞こえた。
 はっとして顔を上げると、そこには難しい顔をした基樹と、その少し後ろに驚いた表情の涼真が立っていた。
 途端に、申し訳なさが再びこみ上げてくる。
  「ごめんなさい......、ごめんなさい、基樹さん。あたし、克也が『離れ』には行きたがらなかったことを知っていたのに。あたしが、克也を連れて行ったりしなければ――」
 岬は拳を震わせた。
 もともと自分のことをよく思っていない基樹のこと、こんな風に自分たちの長を苦しめることになった自分を怒っているのだろうと思うと、岬は自然に俯き加減になる。
   
  「そのことが分かっていながら、今の不安定な長を連れ出すとは......考えが浅いとしか言いようがありませんな」
 果たして辛らつな言葉が返り、岬の心に突き刺さる。
  「基樹さんっ!それは――!」
 岬を庇おうと声を荒げた利衛子を、涼真が無言で手を目の前に出し『待った』のような動作で制した。
  「まあ、仕方が無いでしょう。長と澄香様のことについては長年タブー視されてきたことですから、その流れのまま岬さんに『離れ』に長をお連れする危険性やそのような状態になったときの対処について、ちゃんと確認をしていなかったこちらの落ち度でもありますから」
 あくまで優しく涼真が言うが、岬の心は余計に沈んでいく。涼真は笑みを消さずに続けた。
  「けれど、今度からは何か少しでも疑問に思うことがあれば、時間に関わらず遠慮なく私たちに相談していただければと思います。といっても、次があれば、というところですが」
   
  「涼真!何を縁起でもないことを!」
 涼真の言う『次があれば』のところを『次がない』というふうに捉えたのか息巻く基樹に、涼真は肩をすくめた。
  「私の言ったのは、もうこんな状況は二度とあってほしくないという願いを込めたもので、悪い意味ではありませんよ。他ならぬ長のことですから心配な気持ちは分かりますが、岬様を責めたところで状況は何も変わりません。基樹、あなたも落ち着きなさい」
   
 年齢は涼真の方が下のようだが、立場的には上なのだろう。涼真にぴしゃりと言われ、基樹は不本意そうに岬の方を忌々しげに見やった。      
  「何にせよ、いずれ長の隣にお立ちになる方がこんな情けないことでは困ります。もっとしっかりとしていただかなくては」
 冷ややかに基樹が告げた。心が痛い。
   
  「基樹さん!岬ちゃんだってつらいんです。そんな冷たい言葉をかけなくてもいいじゃないですか!それに、話を聞けば『離れ』に付いて行きたいと行ったのは克也の方じゃないですか。そんな状況で岬ちゃんが克也の願いを断れるわけが無いじゃないですか」
 利衛子が吠えるが、基樹は聞こえないかのようにどんどん歩いていってしまう。
   
 その後姿を見ながら涼真が深くため息をついた。
  「基樹は長のことになると少々熱くなりすぎるのが玉に瑕ですね。彼の場合、全て長を中心に回っていますので許してくださいね。」
  「いえっ......」
 岬は首を振った。
 基樹の言うことはもっともなのだ。基樹の言葉は、そのまま自分が思っていることだ。だからこそ、心に刺さるのだ。
   
  「岬様の心の内を思うと少しお休みいただきたいところなのですが、水皇様がお呼びなんです。どうします?岬様がおつらいならまた後にしますか?」
 涼真が申し訳なさそうに切り出す。その気遣いに、岬は首を振った。
  「大丈夫です」
  「そうですか......」
 涼真は少し心配そうに岬の表情を窺ったが、やがて頷き、そのままついてくるようにと言って歩き出した。
    
   
   ******   ******
   
   
 母屋一階の応接室に水皇は待っていた。
 岬と利衛子が部屋に入ると、「いらっしゃい、二人とも。大変だったね」といつもの笑顔で迎えてくれる。
 あまりに水皇が普段どおりなので岬は泣きたくなった。だがここで泣いては心配をかけてしまうと、唇を引き結んで耐えた。
 部屋のドアの脇に控えめに立っていた稔里が、いつものように二人に水皇の座る目の前に座るように促す。
   
  「今回のこと......、本当にすみませんでした。あたしが、『離れ』に克也を連れて行ったから―― 」
 深々と頭を下げる岬に、水皇は「いやいや」と手を振った。
   
  「岬さんのせいじゃない」
 水皇は笑みを消し、きっぱりと言う。
  「長、いや、克也の危うさはこんなことになる前から常に存在していた爆弾だ。それは多分、最近の克也なら、自覚をしていたはずなんだ。いつかは乗り越えなければならない壁が、たまたま今やってきたというだけだ」
  「でもっ......」
 なおも謝罪を述べようとする岬に、水皇は表情を和らげた。
  「克也は、自ら『闇獏』に捕らえられたんだよ」
    
  「でもそれは、あたしの代わりに――」
 声をあげる岬に、
  「それもあの子が望んだことだ。あなたが苦しみ続けることはあの子にとっても苦痛だから、あの子にとって最善のことをしただけなんだよ。だからあなたのためというのもあり、克也自身のためでもある。そしてきっと克也は今この機会を利用して、自分の中のトラウマを乗り越えようとしているんだと僕は思うんだよ。だから岬さんが自分を責めることはないんだ」
 そう水皇は言った。
 
  「克也は今も闘っているはずだ。岬さん、あなたと自分の未来のために」
 そんな思ってもみない水皇の言葉に、岬はそのまま聞き返した。
  「あたしとの、未来?」
  「そう。このままでは自分のそのトラウマは今後の闘いの中で必ずネックになる。だからこそ自分自身に克たなければあなたとの穏やかな未来も来ないことを、あの子は良く知っているはずなんだ」
  「自分自身に克つ―― 」
 岬は繰り返した。
   
 それを受け、水皇は頷く。
  「あらゆる困難に打ち克つ、それこそが、克也の名前の由来。それが彼の母親の願いでもある」
  「お母さんの――」
 言いかけて、岬は利衛子に話を聞いた時から疑問に思っていたことを急に思い出した。
  「あの......教えてください。克也のお母さんは、克也を本当に愛していたんですよね?」
    
 克也の取り乱した様子から、母親との事が大きな傷となって今でも克也の心の奥底に残っているのだということは、詳しいことを知らない岬にも分かる。
 自分の子どもの目の前で自殺するなんて、子どもの心にどれだけの傷を残すのかということを、母親である久遠澄香は考えられなかったのだろうか。―― もちろん、酷く精神を病んでしまっていたというから、どうしようもないことだったのかもしれない。けれど、克也のことを澄香は一体どう思っていたのか、岬には全く見えてこなかった。もし万が一、手離した子どものことはどうでもいいと思っていたりしたら、それほど悲しいことはない。手離した息子でも、ちゃんと大切に思ってくれていたのかがとても気になっていた。
   
 突然話を変えた岬に動じることもなく、水皇は自然な表情で答える。     
  「愛していたよ。あまりに愛しすぎて、精神を病むほどに。目の前の智也を見れば手離した克也を思わない日はなかっただろうと思う。彼女は、克也が心配で心配で、時折、夫の目を盗んでは会いに行っていたんだ。だがある日、それが僕の兄―― 夫である久遠智皇に知られることとなって――。兄は彼女に対し克也に会わないようにきつく命じた。命じただけじゃなく、常に見張りを付けて彼女を監視させた。克也に会いに行くことを禁じられてしまった彼女は、その他の悩みも共に心に積もり積もって、いつしか精神を病んでしまった......」
 水皇は少しだけ視線を岬から外し、どこか遠くを見やる。
      
 「そして、克也が五歳の誕生日の日――。 部屋を抜け出し、屋敷を抜け出して――、彼女は克也を迎えにいった。誕生の祝いをやるからと言って、久遠家の『離れ』の自室に克也を連れてきてしまった。もちろん、それは兄の知るところとなり―― それがきっかけで二人は口論となった。そして――」
 そこで水皇は眉を寄せてつらそうに瞳を閉じた。
   
  「彼女は、兄と―― そしてその場に居合わせた克也の目の前で、自らをナイフで刺し、命を絶った。」
   
 岬も視線を畳へと落とした。
   
 昨日利衛子に初めてそのことを聞いた時も、戦慄が走った。
 事実があまりにも重過ぎて、克也の気持ちの想像がつかなかった。
 ただ、それが克也の心に与えたダメージは相当なものだったのだろうということだけは明白だった。
 だからこそ今も、その事実を突きつけられた途端に克也は最悪の事態に陥ってしまったのだから。
       
  「克也の母親である久遠澄香―― 彼女は『愛すること』に関して本当に純粋だった。夫である兄への愛も、子どもへの愛もひたすらまっすぐで。誤魔化すことも、他に逃げることもできなかった。ひたむきすぎて不器用だった。自分の思いに妥協することができなかったんだ。だからこそ、その真っ直ぐな思いを受け止めてあげられる人が必要だったのに、兄はそれをしなかった。それどころか、愛人を何人も作るような酷い状態でね......」
 水皇の拳が、小さく揺れる。
 岬は水皇の瞳の中に兄である久遠智皇への怒りを見た気がした。
      
  「克也は姿だけじゃなく、彼女のそういうある種のもろい部分を強く受け継いでいる。けれどね、克也には彼女にはなかった心の強さもある。それがなければいくら周りで守っても今まで生きていくことはできなかっただろう。そしてさらに、今の克也は何ものにも代えがたい強力な力を手にしている。―― だから心配はいらないよ」
  「......何ものにも代えがたい強力な力とは何なんですか?」
 尋ねる岬に、水皇は微笑んだ。
   
  「それは君だよ、岬さん」
   
 思いがけない言葉に、岬は呆然と水皇を見た。
   
  「それは、あたしが宝刀の力を持っているからですか」
 どこか憂鬱な気持ちで岬は尋ねた。
 自分にある力と言えば、まず浮かぶのは宝刀の力。けれど宝刀の力は自分にとっては、ありがたくないものだ。この力のせいで克也を苦しい立場に追いやっていると思っているというのに。
   
 岬の問いに、水皇は静かに首を横に振った。
  「いや、今回僕が言っているのはそういうことじゃない。 克也の母親や克也のように、純粋で真っ直ぐすぎる心を持つ者には、その脆さを支える存在が必要なんだ。その支えによって、その脆さは強さに変わる。真っ直ぐということはそれだけ突き進む力も強いということだから。今の克也の最大の武器は君への思いだよ。その思いで、あの子は最大限の力を発揮できる」
   
 岬は思わず両手で口元を覆った。そうしないと、嗚咽が漏れてしまいそうだったから。
 どうして自分はいつも克也を苦難に引きずり込むことしかできないのかと、自分を責める気持ちばかりが大きくなっていた。けれど水皇の言葉は、沈みきっていた岬の心を、暗い海の底から救ってくれるかのような温かさを持っていた。
   
 涙を流す岬の肩を、水皇はやさしく二度叩いた。
  「岬さん、克也を好きになってくれて、支えてくれてありがとう。そして、これからもよろしくたのむよ。我々は、そんな二人を最大限にサポートしていくから」

  「ありが......とう、ございます......!」
 言いながら、何度も何度も岬は頷いた。
 頷くたびに、自分の頭の中を覆っていた霧が晴れていくような気がした。
   
  『私の役目は、克也を支えること』
 今は、それを心から信じることができる。いつものように『支えになりたい』という願望だけではない、実感。
   
  『今、あたしがすべきことは、自分を責めることじゃない』    
 岬は涙を腕で拭い、顔を上げ―― そして微笑んだ。

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