賭け(2)

 「あー、おいしかった」
 傍らで利衛子がひとつ伸びをした。
  「ほんと」
 岬もスプーンを置きながら微笑み返す。
 朝食は抜いてしまったが、水皇の言葉に救われて、ようやく物を食べる気持ちになれ、利衛子と共に母屋の食堂で昼食をとった。

 窓からのぞく青々とした木々を見やり、岬はこれからのことを考えていた。
   
  『克也は、今でも闘っているはず』
 水皇の言葉が岬の心に強く残る。   
   
 術によって記憶が幼い頃に戻ってしまってからも、『高校生』の克也は時折見え隠れしていた。利衛子の言うとおり、元の意識も僅かながら残されているのだということは岬にも分かる。それならば、幼い克也の思いは高校生の克也の思いでもあるはずだ。
 これは憶測の域を出ないが、もしも水皇の言うとおり、克也がこの機会を利用して自分の中のトラウマを乗り越えようとしているのなら、術をかけられてから克也はずっと闘い続けていて、そして今なお闘いの最中にいるということになる。
 岬自身は吉沢鷹乃の術にはまってすぐに『闇獏』に負け、幻影に惑わされてしまっていた。けれど克也の場合、言動が幼い以外普通に見えたのは、克也が心の中でずっと『闇獏』と闘っていたからなのかもしれない。
 それならば――、   
      
  ―― 岬ちゃんとずっと一緒にいたい ――
   
 あの時―― 離れに行く直前、そう克也は言っていた。
 幼い言動に惑わされて本質を見失いかけたが、確かに克也は、闘いの最中(さなか)にいてさえ岬と一緒にいることを選んでくれていたのだ。克也はずっと闘っていて、そして一緒に闘う者として自分を選んでくれた。以前利衛子が、克也には『辛いことも苦しいことも全て自分の中で解決しようとする癖がある』と言っていたが、確かにそんなところのある克也が、自分の手を取って、自分を頼ってくれた。本当にそうだとしたら、最高に嬉しい。だから――、
               
  『克也一人に頑張らせない。あたしも、一緒に頑張るんだ。克也の闘いを支えるために』
 決意を強くする。
   
  ―― 逃げてばかりなのは性に合わない。だから、一か八かの賭けに出る。
   
 そう岬は決めた。
         
   
   ******   ******
   
      
 目の前に一つの扉がある。
 朝、克也が開いたこの扉は今はまた閉じられており、あたりは静寂に満ちていた。
   
 後ろを振り返ると、少し離れた廊下の曲がり角で利衛子が小さく手を振っている。ゆっくり澄香と話がしたいからと言って、一人で部屋に来させてもらったのだ。手を振り返して、岬は扉へと向き直った。
 ドアノブに手をかけ、ゆっくりとその手を回す。
   
 岬は、部屋の中へと一歩踏み出した。
 ひんやりとした空気に、嫌が応にも気持ちが引き締められる気がする。
 かつて、克也の母である久遠澄香が暮らしていた部屋。
   
  「久遠、澄香、さん」
 岬は遺影に向かって呼びかけた。
   
 水皇によると、久遠智皇はもともとから女をとっかえひっかえするような男で、澄香と結婚した後も何人もの愛人を作っては澄香を悩ませていたらしい。
 妊娠が分かり、これで少しは智皇も落ち着いてくれると思っていた矢先にお腹の子供が双子であることが判明し、智皇はその時点で早くも双子の運命を宣告する。生まれてくる子どもに思いを馳せながら穏やかに過ごすはずだった澄香のマタニティライフは無残にも打ち砕かれてしまった。
   
 安らぐ時間さえ無くした澄香は、思い悩んだまま、出産の時を迎える。
   
 生まれた子どものうち、後から産まれた息子である克也を、産んだその日に手離すことになった澄香。目の前にいる子ども―― 智也を育てながらも、もう一人の子どもである克也を思い――。引き裂かれるような気持ちを味わい続けた。
 その思いを断ち切れず、澄香は夫には内緒でたびたび克也に会いに行っていた。
 そしてそれすらも止められて―― 、出口を塞がれた彼女の心はその行き場を失い、やがて少しずつ精神を病んでいったのだという。
 気が触れた言動を繰り返すようになった澄香を疎んじた智皇は、その頃ほとんど使われていなかった『離れ』を改装して、そこに澄香を軟禁した。母屋との間に鍵をつけ自由に行き来できないようにし、ほとんど会いに行こうとしなくなった。愛する夫である智皇ともろくに会えなくなり、息子である智也にも克也にも会わせてもらえなくなった澄香は、ある時最大のタブーを犯す。
   
 警備の目をかいくぐり、影武者として厳重に隠すべきであった克也を久遠の本家に連れてきてしまうというタブーを。
   
 当然夫である智皇は怒り、口論となり―― 澄香は自らの人生に幕を引いた。
 智皇が後に語ったことを信じるとすれば、澄香は、夫として父親として智皇が不誠実であることを責め、それに抗議するために死んだのだという。ただし澄香が亡くなっている以上、その場でどんなやりとりが行われたかは、当事者二人以外で唯一その場にいた克也が口を割らなかったため、はっきりとしたことは未だに分からないのだという。
   
 そんな形で亡くなったため、前長であった久遠智皇と分けられて葬られ、仏壇も先祖代々の仏壇とは別にこの『離れ』にひっそりと置かれたのだという。
 前長の愛を手に入れたかった彼女の望みは死んでもなお果たされないままだ。
  「何だか、悲しい......」
 思わず岬は呟いた。
 その理由が何にしても、愛する人の目の前で自ら死を選び取るほどの激しい思いを抱えていた人。ただ精神を病んでいたせいというだけで片付けていいとは、岬には思えなかった。そこに夫である智皇、そして自らの子どもである智也と克也への強い愛が見える気がしたのだ。
         
  「あたしとしては、本当は克也のために生きていて欲しかったです。きっと克也も―― そして智也さんも、そう思っていたはずです。」
   
 智也には会ったことはないし、詳しくも知らない、けれど母親に対する思いは誰でも皆一緒ではないだろうか。どんな子どもも、自分の母親にそんな人生の終わらせ方はして欲しくないはずだ。
   
  「でもあたし、ひとつあなたに感謝しなければならないことがあります」
 岬は微笑む。
  「克也を、産んでくれてありがとうございます。そのおかげで、あたしは克也に出会うことができた。そのことが本当に嬉しくて......。あたし今、すごく幸せなんです」
   
 考えたくない選択肢だが、澄香がもし産む決心をしなければ、今の自分の幸せは無いことになる。その選択には、本当に感謝してもし切れない。
  『だいたい、聞けば聞くほど、よくそんな過酷な状況で子どもを産んだと思うよ。水皇さんは、澄香さんのことを『脆い』と言っていたけれど...... 思ったより強かったんじゃないのかなあ。それとも、【お母さん】になると、強くなるのかな』
 まだ自分にはよく分からない。でも、とにかくそんな大変な思いをしても、澄香は、ふたつの命を十月十日お腹の中で育て上げ、無事にこの世に送り出したのだ。それが簡単なことではないことぐらいは自分にも分かる。
   
  「これからあたし、今の状況を変えるために行動を起こします。あたし、克也を守りたいんです。頑張りますから......見守っていてもらえたら、嬉しいです」
 澄香の仏壇に手を合わせる。
 遺影の澄香はただ、笑顔を湛えているだけだ。けれど岬には心強い味方ができたような気がしていた。
   
 澄香の部屋をそっと出た岬は、母屋へと足を運んだ。
   
 克也の寝かされている部屋の前に立ち、ひとつ深呼吸する。
 控えめな声で「あの」と声を出すと、中から不機嫌な声と共に基樹が出てきた。少し怯んだ岬だが、拳を握り締め、基樹を見上げる。
   
  「お願いします。少しだけ中に......入らせてもらっていいですか?」
   
 むすりとした顔をしながらも、基樹はジェスチャーだけで岬を中へと通してくれる。
  「目を覚まされるとまた長が苦しむ。刺激されませんよう」
 抑えた声音の基樹の言葉に、岬は「分かっています」と返しながら、心の中で『刺激って一体何をすると思ってるんだろう』と、思わず苦笑する。
   
 広い和室の真ん中に敷かれた布団に克也が横たわっている。一応気を利かせてくれたのか、基樹の気配はこの部屋の中には無い。
 ほんの少し、一歩分の距離をとって岬はその傍らにそっと腰を下ろす。
 まだ薬が良く効いているようで、克也の寝息は穏やかだ。こうして深い睡眠に入っていれば何も起こらない、ただ、少しでも眠りが浅くなってくると途端にうなされ出すのだ。
      
  『克也が元に戻ったら【無謀だ】って怒っちゃうかもしれないけど......でもあたし、何かせずにはいられないんだ。ごめんね』
 克也を起こさぬよう、心の中で呟く。
  『あたしも――克也が苦しむのは、もう見たくない』
    
 こうしていると、ずっとこのまま克也を見つめていたくなる。
 誰だって進んで闘いになど行きたくはない。
      
  『でも、行かないとね』
 一度克也に向かって微笑みを向け―― 、岬は立ち上がった。
         
   
   ******   ******
   
   
 先ほど、丸く整えられた葉の数々を幻想的に照らすライトが点灯しはじめたばかり。早めの夕食を摂り、岬は克也といつもしていたように縁側に座りこんで庭を見つめる。
        
   『こうしていても何も変わらないなら―― 、あたしが久遠家の外に出る』
 これが、水皇の話を聞いた後に岬の出した答えだった。
 出たところで何をどうしようという計画があるわけじゃない。それがどんなに危険かも分かっている。
 けれど、動かなければこのまま克也が衰弱していくのは明らかなのだ。
 今朝の克也の心を引き裂くような叫びが今でも耳に甦り、岬は夏だというのに寒気を覚え、両腕をさすった。
   
 克也の見た光景がどんなものだったのか、岬には分からない。
 もともとの記憶も凄まじかったのだろうということは頭では理解できるが、今は『闇獏』によりマイナスのイメージが増幅された状態だ。元の記憶よりさらに厳しいものになっていたはずだ。
 今まで言動が幼い以外は普通に生活しているように見えた克也が、今回に関してはあんなに取り乱してしまった。自分が近くにいてさえ、叫び続ける克也に何をしてあげることもできなかった。
 幼い頃に経験した、目の前での衝撃的な母親の死――『闇獏』のせいともあるとはいえ、自分が保てなくなるほどの重い過去に引きずられてしまっている今の状態で『闇獏』の創り出す狂気と闘い続ければ、克也の精神は磨り減る一方だ。これ以上吉沢鷹乃が何もしなくても、克也が確実に弱っていってしまうということは目に見えている。
 だとすれば、このまま何もしないという選択肢はありえない。
   
  『吉沢鷹乃は待っているはず。あたしたちが動くのを』 
  
 鷹乃に会ってどうするのかなんて、考えていないし、考えても分からない。
 けれど『闇獏』を創り出したのは吉沢鷹乃だ。『闇獏』をどうにかできるのは鷹乃しかいないのだ。
 そして、僅かながらでも克也を戻せる可能性は―― 行動を起こした場合にしかない。
 決意を持って庭の明かりを見やる。
   
  「みーさきちゃん」
 おもむろに背後から声がして、岬はぎくりとした。
 振り向くと、尚吾と利衛子が立っていた。
 利衛子とは久遠に来てからも毎日顔を合わせているが、尚吾とは何故か会うことが無く、久しぶりだった。
    
  「俺も一緒に行くよ」
 尚吾が微笑む。
  「あたしもね」
 尚吾に続き、利衛子もにかっと笑った。
   
 驚きに目を瞠ったまま固まっていると、利衛子が言った。
  「行くんでしょ?外に。吉沢鷹乃に会いに」
  「え......っ」
 見透かされていたことにしばし呆然としてしまう。
  「お互いに相手のことになると自分が二の次になっちゃうの、岬ちゃんも克也も同じだよね......。でも、その気持ちは当然だと思うから止めない。あたしがもし岬ちゃんの立場でも同じことを考えるはずだしね。―― でも、一人ではいかせないからね」
      
  「先輩......。利衛さんも......」
 二人の顔を交互に見る。
 一人で行く決意を固めていたため、意外な急展開に岬はどう反応したらいいのか分からなかった。
   
  「岬ちゃんを一人で危険な目にあわせたと知ったら、克也が元に戻ったときに何言われるか分かったもんじゃないしな」
 混乱する岬を前に、尚吾が笑って肩をすくめた。

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