賭け(3)

  「ねえ」
 雁乃は、キッチンに立つ鷹乃に声をかけた。鷹乃は手は止めずにちらりと目だけを雁乃へと向ける。
  「あれから、なーんもないね」
 鷹乃と目が合うと、雁乃はそう口にしながらごろりとソファに横になる。そして、天を向いた足をぷらぷらと前後に揺らした。
 まるで猫のような、自由でかわいらしい仕草に、鷹乃は思わず微笑んだ。
      
  「そうね」
 鷹乃は俯き加減で相槌を打つ。   
  「でも、そろそろ......かしらね」
 そこではじめて手を止めて、カウンターの向こうのリビングのそのもっと向こうの大きなガラス窓を見やる。窓の外には夜にも眠ることのない都会の様々な灯りが、まるで宝石のように散らばっていた。

  「蒼嗣くん、だいじょーぶかなあ」
  「あら、敵の心配?」
  「んー......敵。うん。それは、そうなんだけどさあ」
 ごろり、と向きを変え、雁乃はソファの背もたれに顔をうずめる。

  「何か気になることあるの?」
 鷹乃は聞いた。
  「んー、なんかさあ。蒼嗣くん、あたしたちと似てるとこ、あるんだよねえ。前にあたしがちょっぴりつらくなってたときに気を使って話変えてくれたりさあ、優しいとこ、あるんだよお。このまま殺しちゃうの、もったいないなあ。イケメンだしー」
 最後の方はおどけて誤魔化しているが、竜の長に雁乃が少なからず心を開いていることが分かる一言だった。
    
  『優しい』
 の三文字に、鷹乃はぴくりと眉を動かした。
 雁乃は極度に人の愛情に飢えて育った。だから、人に優しくされるとすぐにその人に心を寄せやすい。本当の優しさかそうでないかとは別として。あまりにもあっさり心を寄せるので、その心の動きが作為的かどうか相手には見分けがつきにくい。だからその分敵に近づくことを容易にする。
 人の心をひきつける力は自分と雁乃をあわせても、竜の長のガードにはとてもかなわない。大切な雁乃を巻き込みたくない気持ちもあったが、自分には雁乃のような純粋さが無いために雁乃のように相手の警戒心を真正面から解くようなことはできない。だから、どうしても一時的に雁乃の力を借りる必要があったのだ。

 とはいえ、それはこちらにとっても危険を伴うことでもあった。
 だから早々に引き上げさせたつもりだった。しかし、雁乃がここでそんなことを言うようになってしまうとは――。
   
 少し近付けすぎたか、と鷹乃は後悔した。
 幸一様を殺した憎いあの男――、 ほんの少しでも、かわいい雁乃の心に住まうなんて......忌々しいったらない。何度苦しめても、殺しても飽き足らない。
   
  「もうすぐよ、もうすぐ。あいつらはあたしに助けを求めずにはいられなくなる」
 テレビの音で誤魔化せるほど小さく、鷹乃は呟く。
 瞳に憎しみをたぎらせながら、鷹乃は口の端をにいと吊り上げた。
         
   
   ******   ******
   
      
  「大丈夫?」
 岬の緊張を汲み取ってか、利衛子が気遣わしげに岬の瞳を覗きこむ。
  「もし、不安ならあたしと尚吾だけで行こうか?」
 そう尋ねる利衛子に、岬はかぶりを振った。
  「吉沢鷹乃は、あたしか克也かどちらかが行かないと出て来ない気がする。だからあたしが行くしか、ないんです」
  「......悔しいけど、そうかもしれないね。あいつは岬ちゃんたちを苦しめるのが目的だから」
 利衛子は唇を噛んだ。
   
  正面の北門を目の前に、岬はひとつ深呼吸する。この門をくぐれば、水皇たちの結界の外に出ることになる。その先にどんなことがあろうと、自分たちで対処するしかない。
 岬を守るように左に尚吾、右に利衛子が並ぶ。岬は二人を交互に見て、そして頷いた。
 ゆっくりと前を見据え
  「行きます」
 静かに告げ、自動であるその扉を開く。
   
 門をくぐり外に出ると、岬はその空気の違いに驚いた。
 門の外は空気がよどみ、何かどろどろした思念のようなものがねっとりとまとわりつくようだ。
 克也の心が幼い頃に戻ったあの状態になってから、克也を守るために水皇は結界をより強くしたのだと聞いていたが、これほどとは思わなかった。
  「力の無い普通の人にはそれほど感じないんだろうけど、―― やっぱ空気違うよなあ」
 尚吾が空を仰いだ。
   
 極度の緊張なのか、これから起こる何かを感じているからなのか、岬は肌が粟立つのを感じる。
 思わず自らの両腕をさすった。
   
  その時――、
   
  「やっと、出てきてくれた」
 背後で弾むような―― それでいて感情はプラスのものではないような、不気味な声が聞こえた。
 三人とも弾かれたように顔を上げ、声のした方を見た。
   
 そこには、吉沢鷹乃が腕組をして立っていた。
 今日は白衣ではなく、青いストライプのシャツ姿だ。
      
  「俺らが屋敷を出た途端に現れるなんて、近くを張ってたのか?ご苦労さんなことだな。そんなに暇なのか?」
 不敵に笑いかける尚吾に鷹乃は不機嫌そうに眉を震わせる。
  「あんたなんかお呼びじゃないわよ、利由。用があるのはそちらのお嬢ちゃん」
 そう言って、ちらりと横目で岬を見た。
 気にしないようにと思っているのに、その気持ちとは裏腹に、鷹乃の瞳に恐怖を感じる自分がいる。岬はそんな自分に負けないように、ぐっと両足に力を入れた。

  「嬉しいですね。実に嬉しい。あなたのそんな顔が見られることがね」
 鷹乃の口調が変わる。その丁寧さが余計に恐怖を増幅させる。
   
  『心がどんどんマイナスの方に引きずられてる気がする。しっかりしないと......』
 鷹乃によってすでに何かの術にはまっている気がして足元がぐらつく。
 岬は恐怖を振り切るように二度首を横に振り、顔を上げて鷹乃を見据えた。   
   
  「――克也を元に戻して!もう克也は十分に苦しんでる......」
 精一杯の大声を出したつもりだったが、それほどの大きさにはならず、声も震えた。
 そんな岬の勇気を鷹乃は一蹴するようにふふんと鼻で笑った。   
  「十分に苦しんでる?だから許せと?冗談言わないでくれます?許せるわけ無いじゃないですか」
 鷹乃の口元は笑っているが瞳が全く笑っていない。
  「私は見たい。あの男が苦しんでいる姿を。さぞかし胸が透くでしょうね。もっともっと苦しめばいい。私はあの男が苦しんでいるさまを見たいんですよ。早くここに連れてきてください。苦しむあの男を。苦しんで苦しんで苦しみぬき、狂うさまを、この目で見届けた上でなぶり殺しにしなければ」
 恐ろしいことを滑らせるその唇を愉悦に歪ませ、鷹乃が嗤う。
   
  「あなたなんかの前に克也を連れてくるわけないでしょう!?」
 利衛子がたまらないといったように、岬の横で叫んだ。
  「克也の抱えた傷をこんな風に利用するなんて、なんて卑怯な男なの!」
  「男?」
 横の岬は思わず声を上げる。
  「あれ?岬、知らなかった?あんな姿をしているけどね、あいつは間違いなく生物学上は男よ」
  「生物学......ようするに、身体が男ってことですか?」
 呆然と聞き返す。岬は素直に驚いていた。目の前の鷹乃はどこをどう見ても女性として完璧だったからだ。
   
  「そういうことを本人を抜きにして語らないでくれます?」
 鷹乃の、低く唸るような声が聞こえた。
  「そんなに簡単に語れるほど、平坦な人生じゃありませんでしたよ。それこそ、精神的にどん底まで突き落とされた。そして―― そんな私に苛立ちを覚えた父親のはけ口は、全て妹へと向かっていった......。分かります?自分のせいで妹がつらい思いをしていくのに、それでも自分の心は男であることを拒む......そんな風にしか生きられない自分の苦しみが......」
 鷹乃の笑みは消えうせていた。
  「けれど幸一様はそんな私を救ってくれた。私を身体が男と知っても可愛がってくださった。私の存在を丸ごと受け入れてくれた人。そして、私だけではなく、雁乃も一緒に地獄から救い出してれた。感謝しても仕切れないほど......」
 鷹乃は一瞬だけ表情を和ませる。だが、それも一瞬で、すぐにぎらりとした瞳をこちらに向ける。
   
  「それなのに、もう幸一様はこの世にいない。あの男が、殺してしまったから」
 明らかな強い殺気を抑えもせずに、鷹乃は静かに告げた。
  「あの男を―― 蒼嗣克也を、狂わせて死なせなければ、気がすまない」 
   
      
   ******   ******
   
   
  「う......」
 小さなうめき声に、基樹は本を読んでいた手を止め、顔を上げた。
 見ると、鎮静剤が効いてよく眠っていたはずの克也が、瞳を閉じたまま、眉をしかめて唸っている。
   
  「お、長......」
 克也の苦しそうな表情に、思わず声をかけた。
 その間にも克也の息は荒くなり、何かに耐えるように何度も身体を震わせる。
   
 ただならぬ様子に、基樹が医師を呼ぼうと背後の扉を振り返ったその瞬間、克也が震える自らの腕で身体を支えるようにして、むくり、と起き上がった。だが、苦しみながらのために完全に起き上がることができず、上半身だけを起こした状態のまま、何度も這い出そうともがくような仕草をする。
   
  「長、おやめください!そんな状態で起き上がるなど、無茶です!」
 克也の背中を抱えるようにしてその行動をやめさせようとするが、当の本人はもがき続ける。
 克也の身体は服の上から触っても分かるぐらい熱を持っていて、その衣服も汗で湿り気を帯びていた。
 病は気から、という言葉からも分かるとおり、精神と肉体は切り離しては考えられない。吉沢鷹乃の術による精神の疲弊は、克也の身体をも蝕んでいるのは明らかだった。
   
  「長......長......、どうしてそこまでして―― 」
 基樹は口にせずにはいられなかった。
 克也を責めようとしているわけではない。また、克也がこうなった原因の一つである少女を責めてもどうしようもないことも分かっている。だが、自ら危険に向かっていく克也に対して自分には何もできないことが、もどかしく、つらい。幼い頃―― それこそ、高校生の姿ながらに今、克也の精神が彷徨っている実際のその年齢の様子をも自分は見守ってきたのだ。それなのに自分には何もできない、何もさせてもらえない。行き場の無い思いを基樹自身ももてあましているのだ。
   
  「......き」
  「え?」
 克也のうめき声に何か違う言葉が混じる。はっきりと聞き取れずに、基樹は疑問を口にした。
 瞳は閉じたまま、顔を苦しそうにくしゃりと歪めながらも、克也の唇が何かを言いたそうにかすかに動く。基樹は耳を近づけ、静かに克也の言葉を待つ。
   
  「みさき......」
 弱弱しく聞こえてきたのは、克也が自分を犠牲にしても惜しくないほど大切な少女の名だった。
 何となく予想はしていたが、基樹は少々むっとする。   
   
  「みさき、ちゃん、が......あぶない......。―― いかなきゃ」
 そう言って克也は再びもがき始める。
   
  「なりません!長!今、岬さんには尚吾たちがついてます。だから」
 体を抱えるようにして止める基樹だが、克也は起き上がろうとすることをやめようとはしない。その腕は何度も畳の上をすべり身体ごと横倒しになる。一瞬動きを止めるが、また動き始め......。それを繰り返す―― 何度も。
  「長――、無理です――!どうかおやめください......」
 克也の肩を掴み、基樹は半分泣きそうな気持ちで無理やり克也の動きを止める。声はかすれた。

   
 その時、
      
  「行かせてやれ、基樹」
   
 落ち着いた低い声が響いた。
 それが水皇の声であることは、声の主の顔を確認せずとも分かる。
   
 基樹はそのままの体勢で声のしたほうを振り返った。
  「ですが......!今の長は精神的にも、力的にも非常に不安定です!今朝の長の力の放出―― 百パーセントの力が出ていれば、いくら結界があったとしても離れが崩壊するほどの破壊力があるはずなんです。それがあの程度で済んだということは、現在、長は力をほとんど出せないのだと思ったほうがいいということです!今、この状態のまま、吉沢の前に出ればどんなことになるか......」
   
  水皇は少しだけ眉を寄せる。
   
  「今の長の状態が危ういことは分かっている。俺も迷った。尚吾と利衛子を付けて岬さんに任せようと思ったことも事実だ。だが―― 最終的にたどり着いた結論は――、この事態を本当の意味で動かせるのは、長―― 克也自身しかいないんじゃないかということなんだ。もちろん、俺も克也は一族の長としても、甥と言う意味でも大事だ。できるだけ危険から遠ざけてやれるならそうしたい。だからこそ、今まで俺が前面に出ることで守ってきたんだ」
 水皇は瞳を閉じ、一拍置いた後再び真っ直ぐに基樹を見た。
   
  「だが、もう我々は見守る立場になったのだと、そう思わないか? 前衛に出て闘うのではなく―― 若い者の行く道を影から支える立場に。もう長にも『自分の手で』守りたいものができたんだ。それは、かつて自分たちが自ら守りたい者のために前に出て闘ってきたのと同じなんだ。だって、あの頃の俺たちだって危険なんて考えて動いていなかっただろう?」
  「水皇様......」
 基樹の力が抜ける。
 その途端に、克也は何も言わずふらふらと歩き始めた。
 慌てる使用人たちに、水皇は克也の自由にさせるように言いつけると克也の前に走り寄り、その肩をがしりと掴んだ。
  「克也、お前を信じる。お前が守りたいと思うものを、全力で守れ。そして―― 決して自分の命も無駄にするな。お前は大切な、俺の甥っこなんだからな。他にも、いまやお前の周りには、お前を本当の意味で大切に思う者はたくさんいるんだ。だから、――死ぬな」
 力強い、願いを込めた水皇の言葉に、克也は何かを言いかけたが、すぐに苦痛に顔をゆがめる。
 『分かっている』というように水皇は頷くと、克也をつかんでいた手を離した。少しだけ、克也が笑ったような表情をしたと思えたのは基樹の気のせいなのか――。
    
  よろけながらも前に進む克也の後姿を、水皇は真剣な表情で見つめ、傍らに控えていた涼真に向かい口を開いた。
  「涼真―― どんなことをしてもいい。長を、守れ。決して前面からではなく影からな。―― 俺のことは今はいいから」
  「分かりました」
 涼真は一度頭をたれ、足早に克也の後を追った。
   
   
  「こういうとき、力の無い私のような者は―― もどかしいですね」
 基樹はぽつりと呟き、唇を噛む。

  「長が帰ってきたとき、変わらぬ姿で迎えてやることも大事な仕事だ。克也に『変わらぬいつもの居場所』を作ってやることはとても重要なことだから」
 水皇は基樹に微笑んだ。

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