帰る場所(1)
目の前の通常にはありえない空間 ―― すなわち結界に向かって克也が手をかざすと、その空間の作り手を認識したのか、まるで風船を軽く指で押したときにできるような窪みができる。克也はそのまま吸い込まれるようにして『中へ』と足を踏み入れた。
結界に移動する際の、異空間を渡る一瞬の違和感の後、地面と空だけの殺風景な空間が広がる。
その中に、吉沢鷹乃は佇んでいたが、克也の姿を察知すると剣呑な光をその瞳に宿し身構えた。
その様子を克也は正面から見つめ返す。
だが、鷹乃はすぐに視線を自分の足元に移し、ひとつため息をついた。
「貴方の張った結界のひとつも破れないとは――、やはり本気を出した貴方には敵わないということでしょうね。口惜しいことです」
僅かに笑みさえ浮かべて言う鷹乃に、克也は眉を寄せた。
「やけに諦めがいいな。一体何を考えている?」
鷹乃は薄く微笑んだままだ。
どんな出方をすればいいのか分からず、克也は少し戸惑う。
二メートルほどの距離を取ったまま、しばし二人の視線は静かにぶつかり合った。
抑えた声音でゆっくりと鷹乃は言葉を紡ぎだす。
「決めていたことがあります。雁乃か私か―― どちらかが死んだら、もう片方も生きてはいないと」
克也は僅かに目を瞠った。
「雁乃も、それを望んでいたのか?」
過去形で問うと、鷹乃はふわりと微笑む。
「もちろんです」
瞳に強い意思を宿し、鷹乃ははっきりと答えた。
「私たちは、二人で一人です。幼い頃から――、私もあの子も『出来損ない』と父親に常に罵られながら生きてきたんです。けれど幼いゆえにどうすれば良いのか分からず、ただ怯え、耐え忍ぶしかありませんでした。きっと―― 自分が彼を殺さなければ、今でもそのままだったでしょうね」
鷹乃は皮肉げに唇を歪めた。
「お前が、父親を殺したのか」
「ええ。彼はあの日―― いつものように酒に酔いながら、まだ中学生になったばかりだった雁乃を犯していました。その頃にはもう、雁乃は抵抗することすら思いつけないほど――、日々繰り返されるあいつの性暴力に疲れて、されるがままになっていました。そんな姿に、もう私は我慢できなかった......。色んな思いが交錯した末、初めて―― 術力が発現したんです。気がつくと、父親が目の前で頭を押さえてのたうち回っていて――、やがて狂ったように叫んだ末に動かなくなりました」
鷹乃は視線を宙にぼんやりと浮かせたまま、言葉を一拍置いた。ここにはないもの――過去を見つめるように。そして再び口を開く。
「あの子は一糸纏わぬ姿で、その光景を微動だにせず見つめていました。そして全てが終わった後―― 堪えきれなくなったように、私の腕の中で――、号泣したんです」
鷹乃は思いを馳せるように瞳を閉じ、しばらくの後ゆっくりと開いた。
「その時に決めたんです。これからも、私はあの子を守るために生きようって。あの子を守るためにこそ自分の力はあるのだと――」
鷹乃の瞳が妖しく動く。
「――!?」
瞬間、異変を感じて克也は息を呑んだ。
鷹乃はにやりと口端を歪める。
「闇獏の術に一度でもかかった者には、闇獏の残した『印』が僅かに残っているんです」
鷹乃の言葉を裏付けるように、克也は思うように体が動かせなくなっていることに気づいた。
「鷹、乃――、お、前、何を......」
そんな克也を冷ややかに見つめ、鷹乃は腕を組む。
「その印は闇獏自体が消えた後も、一定期間残ります。そこから、こんなことができるんです。あなたが自ら闇獏の餌食になった瞬間―― 貴方は二重の意味で私に自由を奪われたんですよ。あ。もちろん、栃野さんも同じですよ?」
克也は無理やりに体を動かそうともがきながら、鷹乃を睨む。幸い動かないのは体だけのようで口は動かせる。
「岬、には手を出すな、よ?」
「こんな時にも彼女の心配ですか。美しい愛のなせる業ですかねえ」
鷹乃は肩をすくめた。
「先ほども言ったように私たちは――、どちらかが死んだら一人では生きてはいないと約束しました。でもそれだけじゃなく、こうも決めていました。後を追う前には必ず、私たちの名誉を取り戻してから追うのだと」
思うように動かない克也の体を、鷹乃は後ろから羽交い絞めにする。
「ただでは死なない。あなたも道連れにして、忘却の渦に飛び込みます――」
忘却の渦とは、人の心に干渉できる者だけが扱える、記憶とともに全てを飲み込む異空間。全てを消滅させるという意味では宝刀の力にも似ているが、これは基本的に自分にのみ有効で、他人に対しては使えない。だが、自分の身を犠牲にすれば、その空間に他人を引きずりこむことはできるのだ。
「敵の長である貴方を道連れにしたならば、二人の名誉は挽回できる。私の命と引き換えにしてもね」
鷹乃の瞳に狂気を見た気がして克也は冷やりとしたものを感じる。だが、それを悟られないようにぐっと拳を握った。
鷹乃はそのままの体勢で続ける。
「ある意味、これは私にとって嬉しいことかもしれません。忌まわしい過去を忘れられるならば、忘れたいと、私も雁乃も思っていたんですから。けれど、そんなに簡単に記憶は消えてくれないんですよね。これでようやく楽になれる......。この気持ち、貴方ならば分かってくれますよね? ―― 貴方も、忘れたほうがいいでしょう?辛いことなんて」
瞳がきらりと光った気がした。
「もう終わりにしましょう」
冷ややかに告げる。
「でも全てを終わりにする前に、貴方にどうしても聞きたいことがあります。なぜ―― あなたに闇獏の呪縛が敗れたのか――」
納得がいかないというように、鷹乃は首をひねる。
抵抗を止めた克也は、視線を自分の足元へと移す。
僅かに時が流れた。
「お前には感謝しなければいけないな......」
「え?」
意外な言葉に鷹乃が怪訝な顔をする。
「お前のおかげで、両親がらみで過去にあった様々なことと正面から向き合うきっかけができた。自分にとって、過去の嫌な出来事はずっと思い出したくないことで――。けれど確かに、お前の言うとおり、忘れたいと強く望んでも記憶は消えてくれなかった――」
克也は瞳を閉じ、しばし瞑目した。そしてやがてゆっくり瞳を開く。
「けれど、これからのためには、この過去と対峙しなければいけないことは良く分かっていた。でもきっかけがなかった。そんな時に―― お前が闇獏を俺の中に移す提案を仕掛けてきた。その時に俺はこの機会を逆に利用してやろうと思ったんだ。過去の忌まわしい記憶を増幅させるという闇獏―― それに打ち勝てたとき、自分は過去を乗り越えられると」
きっぱりと言い切った克也に、鷹乃はぎり、と歯軋りした。
「私の創り出した闇獏ごときに負けるわけがないと、初めから確信があったということですか......」
「いや、確信があったわけじゃない。けれど―― 絶対に負けるわけにはいかないと思った。岬のもとに、絶対に帰りたいと思っていたから」
克也は微笑む。
「岬は俺の全てを受け止めてくれる。そんな岬の存在が心にある限り――何度迷っても俺は這い上がれる」
克也は正面を見据えた。
「過去は変えられない。それは確かだ。だが―― それを悲観してばかりではさらに不幸になるだけだ」
その言葉に鷹乃は目を瞠った。
鷹乃の動揺を感じ取りながら、克也は瞳を閉じ、再びかっと見開く――。
その瞬間に克也の体は蒼いオーラに包まれ、ぱあんと何かがはじけるような音と共に克也は地面を蹴った。
不意をつかれ身動きができなかった隙を突き、克也は逆に鷹乃を羽交い絞めにする。
悔しげな表情で逃れようと身をよじる鷹乃に、克也は静かに告げた。
「ここは俺の空間だ。この結界は俺以外の者の術力を抑えるようにできている。この中ではお前の術は通常の半分ほどの威力しか出せない」
「――っ......形勢逆転ですか......」
鷹乃が唇をかみしめる。
「過去の忌まわしい出来事も含めて、今の自分を創り出している。けれどそれでもいいと――そんな自分でも大丈夫だと岬が言ってくれるから、俺は俺のまま、生きていける。いや、生きていきたい。忌まわしい過去も自分の心次第で忌まわしいだけのものではなくなると、中條幸一たちにされた仕打ちを今まさに乗り越えようとしている岬が教えてくれた。そして、あんな過去があっても自分がこれまで生きてきたのは、いろんな人の助けがあったからだということに気づかせてくれたのも岬だ」
そこで克也はひとつ深呼吸する。そして強い決意を瞳に宿し、口を開く。
「もう忘れたいと思わない。辛い記憶の中にも――、幸せな記憶もあるから」
克也は微笑む。
―― 沈黙が流れた。
それを破ったのは、鷹乃だった。
「なるほどね。甘いですね......一族の長にあるまじき甘さだ。―― でも、私も―― 甘いのでしょうね」
そう言って瞳を閉じる。
「貴方は私が愛した幸一様の仇......。そしてこのままではあなたは確実に、我が一族の長、中條御嵩の脅威になる。でも、どうしてでしょうね......。今の私は―― 貴方を生かしたいと思う。貴方が私と――、とても似ているからなのかもしれません。似ていながら――過去を乗り越え進もうとする、そんな貴方の行き着く先にとても興味があります」
そう告げる鷹乃は、どこか晴れ晴れとした顔をしていた。
「貴方が、中條御嵩を追い詰める―― そんな夢を見たいのかもしれない」
ぽつりとそう付け加えて。
「御嵩を?――お前は奈津河一族だろう?」
怪訝な表情の克也をちらりと見やり、鷹乃は意味ありげな視線を送って口の端を上げる。
中條幸一と御嵩の間の確執と、複雑な感情に動かされる鷹乃の心のうち――。克也は、何となく理解できるような気がしていた。
「私にもただひとつの『帰るべき場所』があります」
鷹乃は詠うように言った。
「私が帰るべきは幸一様と雁乃のところ。あなたを連れて行っては雁乃が悲しむ。あの子は貴方のことが結構気に入っていましたから。それに、幸一様との逢瀬にも貴方は邪魔ですし。私は一人で『帰り』ます、ただひとつの場所に」
鷹乃は微笑んだ。
「貴方を葬ることができないなら―― せめて貴方の手にかかることだけは避けたい」
そんな囁きと共に、ごおっという一瞬の旋風を鷹乃は体に纏う。
それは鷹乃を中心に『内側に』向かって働きかける力。
――『忘却の渦』
引きずられそうになり、克也はその場から飛びのいた。
「っ、鷹乃......っ」
その力がたんだんと増していくのが克也にも分かり、思わず呼びかける。
『早く結界を解かないと、あなたも道連れにしてしまいますよ?』
轟音の中で―― 鷹乃の声がその場一帯に響く。
克也は踏ん張って勢いを増す風に耐えていたが、それすらもきついほど、風の威力は強まっていた。 確かにこのままでは、雁乃の術と引き換えに結界ごと引きずり込まれることは必至であり―― やむを得ず、克也は結界を解く。
刹那、目も開けていられないほどの風が吹き――
克也の目の前で、鷹乃は消滅した。