帰る場所(2)

 岬は夢を見ていた。
   
 優しく、それでいて力強い克也の声が、自分を呼ぶ。最近聞きなれた『岬ちゃん』ではなく、呼び捨てで、
  「岬」
 と。
 そう呼ばれていたのはそんなに前のことではないのに懐かしく、切ないほど愛しく感じる。
   
 その声がどこから聞こえてくるのかを確かめようと周りを見回すけれど、いくら遠くに目を凝らしてみても果てしなく桜色のもやが続くだけ。少しだけ不安になって岬は何も無い空間に手を伸ばした。
  「克也、どこにいるの?声だけじゃなくて、その姿を見せて――」
 もどかしくてそう呼びかけると、少しずつもやが消え始める。
   
  「そこに、いるの?」
 手を伸ばすと、自分の指先に温かいものが触れる。
 途端に心がきゅうっと締め付けられるようで、岬ははっとした。
   
 刹那、目の前に見えるものが急変する。
   
 和風の天井が目に飛び込んできたかと思うと、克也の端正な顔がそれを遮るように重なる。まだ夢の中なのか、現実なのか認識ができずに、岬はそのまま瞬きをひとつした。
   
  「大丈夫か?」
 心配そうに克也の眉が寄せられる。
  「頭......痛くはないか?」
  「―― え?」
 克也の問いに対し、岬の口をついて出てきたのは疑問符だった。
   
  「克也......?」
 違和感を感じて、目の前の者の名を呼ぶ。
 何だか、もう何年も会っていなかったような者に会ったような、そんな不思議な気がするのはどうしてだろうか。
 岬の様子を静かに見守る克也には、もうしんどそうな様子は見られず、やけに雰囲気が落ち着いている。
  
  『もしかして、闇獏の呪縛が、解けてる?』
   
 克也は闇獏に自ら捕らえられて記憶が三、四歳頃に戻ってしまった上、その術のせいで過去の忌まわしい記憶に心も身体も共に苛まれ続け、動くのもままならないほど弱りきっていた。けれど目の前の克也には苦しそうな様子はない。
  『もし、呪縛が解けたのだとしたら――?』
 そのことに思い至り、岬の心臓が大きく跳ねた。
 確かめるために、緊張に震える唇で、岬は言葉を紡ぐ。
   
  「克也――、もう一度、あたしを、呼んで」
 期待と、不安に、指先の熱がじわじわと引いていく気がする。
   
 岬の言葉に、克也の深みのある瞳が僅かに目を瞠って――、
  「―― 岬」
 と微笑んだ。
 少しはにかんだようで、そして限りなく愛情に満ちた『特別な』笑顔で。
   
 岬はがばり、と体を起こして座り込み、反射的に傍らの克也の腕をつかんだ。   
  「もとに......戻った、の?」
 岬の問いに克也は笑顔で頷く。
  「高校生の克也に?」
 未だどこか信じられなくて、岬は再び問う。
  「そうだよ」
   
 その答えを聞いた途端、様々な思いが自分の中から溢れ出るような気がして、岬は両手で口元を覆った。けれどその思いはそれだけでは堰き止めることができずに、瞳から涙として溢れ出る。
  
 そんな岬の体を、克也が両腕を伸ばしてふわり、と包み込んだ。克也の大きな腕の中に小柄な岬はすっぽりと収まってしまう。
 護られているという安心感を体中に感じ、岬は瞳を閉じた。
   
 が、すぐに『あること』に気づき、慌てて両手で克也の胸を押し、体を離す。
  「克也が戻った、ってことは......あの人―― 鷹乃は、どうなったの!? だって、あたし―― あの人の術で頭がすごく痛くて......それでどんどん克也が見えなくなって――」
   
 それが岬の最後の記憶だ。
 それなのに、気づいたら和室――おそらく久遠のお屋敷の一室――で布団に寝かされていた。その間の記憶がごっそりないのだ。
   
  「鷹乃は、死んだよ」
  「まさか......あたし、が?」
 記憶が途切れた間に、また宝刀の力を使ってしまったのではないかと思うと、体の芯が冷えていくような気がする。
  「そうじゃない」
  「じゃあ、まさか克也が――......」
 幸一の時のように、克也にまた重荷を背負わせてしまったのだろうかと、思わず岬は克也の腕をつかんだ。必死な形相の岬に対し、克也は首を横に振る。
  「正気に戻った俺が、鷹乃と対決しようとしたのは確かだ。だが――、今回は俺は直接手を下してはいない。鷹乃は自ら消滅という道を選んだ」
  「......自ら......」
 克也が直接手を下したのではないということにホッとしつつも、それでもあんなに自分たちを憎んでいた鷹乃がどうして自ら死を選んだのかが納得できなかった。
   
 少し迷うように視線を泳がせて――、克也は口を開く。
  「鷹乃は過去の忌まわしい出来事から逃れることのできない苦しさを抱えて、そんな自分と決別したがっていた。多分......俺と同じように」
 克也の言葉に、岬は固まった。鷹乃が自ら死を選んだように、克也も遠くへ行ってしまうような錯覚。
  「鷹乃の中には、雁乃に対する思いや中條幸一に対する思いが複雑に絡み合っていて――、けれど、敵である俺には全てを明らかにはしていかなかった。だから、本当のところは、分からない。でも、同じような思いを抱えながらも――、死を選んだ鷹乃とそうではなかった俺が、決定的に違ったことといえば......」
 克也はそっと岬の頬に指先を触れる。
  「俺には、この世で一番大切な人が―― 今ここに生きているということ」
 言い終わる瞬間に、岬の唇に克也の唇が降りて――、岬は瞳を閉じた。
 はじめは触れ合うだけの口づけ。先日、記憶が幼い頃に戻っていた頃の克也がくれたキスを思わせる。けれど、元に戻った今の克也のキスはやはりあの時とは違い、あの時よりも熱っぽさをともなっていた。それは単に温度ではなく、気持ちの入り方なのかもしれない。それが岬にも伝わって―― ついばむようなキスは次第に互いの深くを求めてゆく。
   
  しばらくの後に唇が離れると、岬はそのまま克也の胸に頭を預けるようにしてもたれかかった。そして、乱れた息を整えながら、呟く。
  「鷹乃には、大切な人がいなくなってしまったんだよね......」
 答える代わりに克也は岬の肩を優しく引き寄せる。
  「あたしの、せいだね。あたしが、吉沢さん――雁乃、を消してしまった。中條幸一も......」
  「――お前の、せいじゃない」
 間髪入れずに克也が否定した。だが、岬はかぶりを振る。
  「あたし、今回は明らかに自分の意思で力を、宝刀の力を発現させたの。―― 殺意が、なかったとは言えない......。ううん、曖昧にしちゃいけないよね。確かに殺意は、あったの。あたしは、この手で鷹乃を殺そうとしていた。その中で雁乃が鷹乃を庇って、こんなことになってしまった」
  「それは......」
 気遣うように克也が言葉を紡ごうとするのに重ねるように、岬は再び口を開く。
  「でもね......あたし、心は苦しいけど後悔はしてない。だってあの時あたしが何もしなければ、確実に克也が殺されていたんだもん。克也を、守ることができたから、あたしは大丈夫なの」
   
 克也が目を見開いた。肩を抱く克也の腕に力がこもる。
   
 微笑む岬の頬に、克也は再び触れた。
  「無理するな......俺の前では......」
   
 今度は岬が目を瞠る番だった。呆然と克也を見返す。
    
  「お前、今自分がどんな顔をしてるのか分かってるか? お前が、平気な訳ない。だってそれならどうしてそんなに、泣きそうな顔してるんだよ」
 克也も苦しげに、搾り出すように言った。
   
  「ありがとう......岬、俺を助けてくれて。だけど――、だからこそ......俺の前では、どうか無理しないで。苦しいときは苦しいと―― 涙を流していいんだ」
 克也は再び岬の顔を自分の胸に引き寄せた。途端に温かなぬくもりが岬の体と心に広がってゆく。
  「ごめん、ね。あたし、本当に弱いね。覚悟......したはずだったのに――」
 気づかぬようにしていた動揺が喉の奥からこみ上げてくるようで、岬は思わず、片手で自分の口を押さえた。
   
  「―― それでいいんだ。それが普通だよ。その気持ちを――俺は、岬にだけは、見失ってほしくない」   
 克也の切ないほど優しいその言葉に、揺れる心の波がまぶたから溢れて――、岬は声を上げて泣いた。
   
 けれど、涙を流しながらも、岬は思う。
  『ありがとう、克也。だけど、あたしもう何も知らなかった頃には戻れない。だってあたし、こんな時なのに、あなたを喪わなくて済んだことに、何よりホッとしてる。あたし多分――、克也のためになら本当に―― 人を殺してしまえる......』
   
 ―― その恐ろしさ。
   
 『人間ってなんて勝手な生き物なんだろう』
   
 自分はすでに手を汚しているのだということを痛いほど感じる。
   
 けれど自分はもう引き返せない。
 同じように、心で血を流しながらそれでも闘っている愛しい者を守るために。

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