帰る場所(3)
しばらくして岬の嗚咽が止まり、落ち着いた頃―― 克也がぽつりと呟く。
「岬――、色々......迷惑ばかりかけて、ごめん」
岬を抱きしめたまま、克也が謝った。
「迷惑なんてそんなの、かかってないよ?」
岬は瞳を閉じて克也の胸にもたれたまま微笑む。
克也は少し困ったように眉を寄せたが、しばらくの沈黙の後に切り出す。
「尚吾たちに聞いたけど――、俺、記憶が幼い頃に飛んでたんだろ?」
岬はぼんやりと目を開けて頷いた。
「岬を覚えていなかったなんて......、ほんとごめん」
克也の謝罪に、岬は笑った。
「克也のせいじゃないよ。術にはまってたんだし、仕方が無いよ」
「でも――」
食い下がる克也に岬は肩をすくめた。
「本当のこというとね、最初はちょっぴりショックだった。でも――、克也は記憶が小さい頃に戻っても、完全にあたしのこと、忘れてなかったよ。記憶が幼くても克也はたくさん、あたしのことを好きって言ってくれた。克也からいっぱい好きって言ってもらって、あたしの中のパワーをいっぱいチャージできたって感じだよ」
記憶が幼い頃に戻った克也と過ごした日々。短くてもとても内容の濃い時間で――、思わず岬は微笑む。
「あたし、ずっと克也のことをもっと知りたいと思ってた。あたしの知らない克也がいっぱいいる気がして、なんであたしに教えてくれないんだろうって思ってた。でも――、今回のことがあって、克也を産んだお母さん―― 澄香さんのこととかを、利衛さんや水皇さんに聞いたの。それを知ってしまったら、あたしはなんて考えなしだったんだろうって思った。克也は―― あたしが想像もつかないようなつらいことを、たくさん乗り越えてきたんだね。それは簡単に話せるようなことじゃなかったんだよね......」
岬は克也の腰に回した手で、そのシャツを握る。
克也は、そんな岬の頬に優しく触れた。
「確かに辛くなかったといえば嘘になる。でも――、それをいつまでも引きずっているのは自分で自分を痛めつけているのと同じだ。吉沢鷹乃も、俺も同じだった。だからこそ、鷹乃にそのことを利用された。でも、今となっては言い訳に聞こえるかもしれないけど、こんなことがなくても近いうちに岬には全て話すつもりだった。岬になら話せると思ったから。でも最後の一歩が踏み出せないうちに、今回のことが起こってしまった......」
克也はしばし真剣な顔になって岬を見つめ――、やがてまた微笑む。
「さっき岬は、俺がパワーをくれたって言ってたけど――、パワーをくれたというのなら―― 俺も同じだよ。何度も岬にパワーをもらってた」
克也は岬を愛しそうに抱きしめる。
「闇獏に捕らえられたと認識した瞬間から、悪夢が始まった。過去の思い出したくない色々なことが、たくさん見えた......」
そう言いながら克也はしばし沈黙し――、 少しの間の後、ゆっくりと口を開いた。
「夢とも現実とも分からない多くの幻覚に何度も惑わされて、何度も幻覚の海に飲み込まれそうになった。でも、その度に――、 岬が救い上げてくれるんだ」
囁くような克也の声が岬の耳元で響く。
「あたしが?」
体をよじり、克也を見上げた岬の問いに克也は頷く。
「幼い頃の嫌な記憶に混じって時々......その時代にいるはずのない、岬の姿が見えるんだ。それは必ずといって良いほど、俺が狂気に呑まれそうになる瞬間に見えて―― その度に岬が、幼い頃に俺が欲しかった言葉とぬくもりをくれた」
そこで克也は少し体を離し、岬の瞳をのぞきこむ。
「だから俺は岬を頼りに現実を探した。岬がいる場所、それが俺の居場所なんだと。ただ、その記憶すら断片的で――残念ながら細かいことは覚えていない。けど......岬が、俺を導いてくれたのは確かなんだ」
お互いの息がかかりそうでかからない微妙な位置まで接近した克也の顔に、岬の頬は一気に熱を帯びる。
「闇獏に惑わされた夢と現実の狭間で、岬が言ってくれた言葉の中に今でも耳に残っているものがいくつかあって――、そのひとつに『そこにいてくれるだけで克也があたしの元気のモトなんだよ』っていう言葉がある」
そこで岬は息を呑んだ。
それは確かに先日、自分が克也に実際にかけた言葉だったからだ。
「俺はずっと......自分のことが好きじゃなかった。でも、岬が『そこにいてくれるだけで』と言ってくれて―― その途端に......心がすうっと軽くなった気がした。何ていうか―― ホッとしたんだ......」
そう言って、克也は岬の瞳を見つめ返す。
「俺と久遠の両親とのことは――、俺にとってはもちろん、一族の人間にとっても隠したいもので―― 俺たちはずっとそのことに蓋をしようとしてきた。でも、きちんと解決しないまま無理やり封じ込めた過去は、まるでくすぶる火種を残したまま器に入れられたもののように、封じ込めようと密閉すればするほど、器の中の温度をどんどん上昇させて―― やがて器を破壊して暴れだしてしまうのに。俺は、まだ癒えていない傷を抱えたままの過去にそのまま蓋をした。自分のことを兄の影としてしか見ない父親と、自分を信用させておいて最後に裏切って自殺した母親――、そんな両親へのマイナスの感情を、全て自分の心の奥底に封じ込めて。その結果がこれだ」
深い闇を宿す克也の瞳から目を離すことができず、岬は一瞬息をするのを忘れた。
「克也は――、お父さんである久遠智皇さんに―― 『影』だから、やがて長となるはずだった智也さんのために犠牲にならなきゃいけない、って直接言われたの?」
岬の問いに、克也は真剣な面持ちで頷く。
「前長である父親は厳しい人で、一族の利益のためには手段を選ばなかった。一族の長になる者としてそう育てられてきた人だったから、そういう風にしか生きられなかったんだと......今では思うけど――、幼かった俺にはそんなこと理解できるはずもないよな。そんな風に言われて―― 衝撃だったよ。それまでは、兄ほどではなくても、自分だって父に愛されている可能性はゼロじゃないと思ってたのに、それを言われた瞬間それが見事に崩れ去った。でもその時はまだ、母親だけは自分を愛してくれてると信じてたから頑張れた。それなのに、自分を守ってくれると思っていた母親は、やがて自分を残して自ら手の届かないところに逝ってしまった......。普通なら自分を一番愛してくれるはずの両親に拒絶されて――、俺は愛されることを諦めた。自分が誰かに無条件に愛されることはないのだと、愛されたいと思う自分の気持ちにも蓋をして。でも俺は――本当は自分の気持ちに蓋をするべきじゃなかった。あの時、自分の周りには自分を愛してくれた人たちがいたと、今は分かる。だから、怖がらずにそういう人たちにちゃんと聞いてはっきりさせるべきだった。そうすれば、ちゃんとあの時だって、自分の望む答えを返してくれる人がいたかもしれなかったのに......。そうしなかったから、心の傷をずっと引きずってきてしまった」
どこか自嘲的な笑みを湛え、克也はため息をついた。
「けれど、過ぎたことを悔いても、もう時は戻らない。そのことを気に病んでも歩いてきた路が今更変わるわけじゃない。でも、心の傷を抱えながら、それでも足掻きながら生きてきたその果てに、岬と出会えた『今』がある。もしかすると、そうやって生きてきたこの時間は全て、岬と出会う『今』のためだったのかもしれない――、そう思えば、自分の足掻いてきた過去も捨てたもんじゃないな、って思える」
言いながら克也は、岬の頬に触れた指先をゆっくりと顔の輪郭に這わせる。それは岬の心拍数を一気に上げた。
「岬が、『そこにいてくれるだけで』って言ってくれて、俺は、そのままの自分を受け入れられるような気がした。何もしなくても、自分がそこに存在するだけで誰かに元気をあげることができるんだってことが、本当に嬉しくて――。過去の自分を受け入れられたことで、本当の意味で未来に向かっていけると思ったから。だから――、その思いを実行に移すために今、しておかなければいけないことがある」
言葉を発することもできずに固まる岬に向かい、
「岬――、これから一緒に行って欲しいところがあるんだ」
と、克也はどこか緊張した面持ちで口にした。
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しばらくの後、岬は克也とともに離れの二階奥にある澄香の仏壇のある部屋の前に来ていた。『一緒に行ってほしいところ』というのがここだった。
まだ閉じられた扉の前で、克也はひとつ長い息を吐く。
そして克也は黙ったまま、そっと岬の指を自分の指で引き寄せると、反対の手でドアを開けた。
目の前には小さな窓と、落ち着いた色合いの仏壇が見える。
そしてその仏壇の中央には先日と変わらず、澄香の遺影が微笑んでいる。
遺影を前に、克也はしばし佇んでいた。
克也の表情は、固さは残るものの、昨日ここで取り乱したことが嘘のように静かだった。
けれど唯一繋がっている指先から少しだけ揺れが伝わって――、岬は勇気付けるように克也の指に自分の指を深く絡ませる。
その指先から勇気を得たように、克也は深呼吸をするように深く息を吐くと唇をかみ締める。その瞳の中に強い光を見たような気がして、岬ははっとしてその端正な横顔を見つめた。
岬の指をすうっと自然に解き、克也は仏壇の前に膝をつきゆっくりと手を合わせて瞳を閉じる。
その姿を見て、岬は涙が止まらなくなった。
水皇によると、克也が澄香の仏壇にこうして手を合わせるのは、長の座に就いた日に水皇に無理やり伴われて来た時一度だけで、それ以前も以降もなかったのだという。しかも今回は克也自らの意思でここに来たのだ。それを考えると、本当の意味で手を合わせたのは初めてといっていいだろう。
『澄香さんの思いが、ひとつ報われた瞬間なのかもしれない』
息子と引き離された悲しい母の思いがようやく少しだけ――。
外は灼熱の太陽が照りつけ、蝉の声が煩いほどに聞こえる。じっとしていても汗が滲んでくるような暑さ。
けれど今までの思いを全てぶつけるように、克也はしばらくそのまま微動だにしなかった。
やがて克也はゆっくりと瞳を開け、岬を振り返った。
「もう、済んだよ。―― 岬、ありがとう」
そう告げる克也の表情からは清々しさが伝わる気がした。
「お母さん――澄香さんに、話、できた?」
岬の問いに克也は頷き、ぼそりと呟く。
「もちろん返事は聞こえないけど、俺から今言いたいことは全て言えた。本当に長い間かかってしまったけど......、ようやく親子に戻れた気がする。―― いや、多分幼い頃でさえもどこか遠慮があったから、戻れたというより、初めて親子になれたというのが正しいかな」
「そうなんだ......」
岬の心に温かいものが広がる。安堵のような切なさのような複雑な気持ちが入り乱れていた。
「落ち着いたら......ここだけじゃなくて、墓参りにも行こうと思う」
もう一度遺影を見つめながら、克也はどこにともなく言った。
それは岬へと向けられたものであると同時に、澄香へと向けられたもののようにも、岬には感じられたのだった。