帰る場所(4)

【PG12】(参照)

 その日の夜――、久遠邸。
 ダイニングテーブルで静流の淹れてくれた紅茶を前に、克也と岬、そして尚吾は中央の菓子をつまんでいた。
 鷹乃の術に嵌り克也の記憶が幼い頃に戻ってしまった間のことを、みんなのそれぞれの視点から語り合い、ようやく落ち着いてきた頃、尚吾が深いため息をひとつ漏らした。 
      
 「それにしてもなー、自力で戻ってこられるならさっさと戻ってこいってんだよ」
 尚吾が手を伸ばし、横に座る克也をどつく。
   
 「無茶いうなよ。幻覚はきついし体は思うように動かないし......、あれが精一杯。もっと早く戻ってこられるんなら、俺だってそうしたかったよっ」
 克也が恨めしそうに尚吾を睨む。
   
 そんな克也を、尚吾は珍しく真顔でしばし見つめた。 
  「あの頃の問題は、お前にとって根の深い問題だろ? 大丈夫って信じたかったけど......心のどこかで、ちょっと今回はヤバイんじゃないかって焦ったよ」
 言いながら、尚吾は肩を竦めた。数拍の後―― ふっと表情を緩める。
   
  「でも――、岬ちゃんのピンチに戻ってくるなんて、お前らしい、よ」
 尚吾は身を乗り出し、克也の左肩へと自分の右手をぽん、と置く。そしてその自分の手に、自分の額を付けた。
   
  「よかった......。お前が戻ってきて。――本当に」
 俯いた状態の尚吾の表情は見えない。
 けれど尚吾の手が微かに震えている気がするのは、岬の思い違いだろうか。岬にはまるで、尚吾が泣いているかのように見えた。
   
  「―― ごめん」
 尚吾の様子に気づいてか、克也も真顔で謝った。
   
   
  『克也に戻ってきてほしかったのは、あたしだけじゃなかったんだよね。心から克也を大切に思う人はみんな、思いは同じだったね......』
 改めて、克也がこうして無事に戻ってきてくれた喜びを岬はかみ締めていた。
 そして、克也を本当に大切に思ってくれる人がこうしてちゃんといる――その事実が岬にとっても、とても嬉しい。
  『きっと、克也も同じように幸せに感じているはずだよね』
 少し神妙な表情で固まっている克也を、岬は笑顔で見つめた。
   
  
 その時――、背後で低い声が響いた。 
  「お、なんだなんだ?ヤロー同士でなにやってんだお前ら」
 一同がいっせいに振り返ると、にこにこと笑顔の水皇が腕組をしながら立っていた。
   
  「尚吾、静流さんに今、上がるように言ったから。今日は一緒に帰れよ」
  「ほーい。たまにはおかーさまと帰りますか」
 尚吾がおどけて肩をすくめた。
   
 その後、静流が尚吾を迎えに来て尚吾は帰っていく。
 玄関で見送った二人の姿が見えなくなると水皇は、克也と岬を振り返った。
   
  「克也も今日は疲れただろう?早めに部屋に行け」
  「あ......大丈夫で......」
 言いかける克也に、水皇は笑顔を消した。
  「お前には自覚が無いかもしれないが――、いくら術が解けたとはいえ、今回のことでお前の心と体には相当な負担がかかってるはずだ。今日ぐらいはおとなしくゆっくりしろ」
 語気を強めた水皇の言葉に、克也も「――はい」と頷いた。
   
 克也は名残惜しそうに岬を見つめた。   
 岬も、正直に言うと今日はもっと一緒にいたかった気持ちがあり、少し残念に思う。
  『でも、確かに水皇さんの言うとおり、あんなに苦しんでいたんだし......今日は我慢しなきゃね......』
 寂しい気持ちを心の奥に押し込め、「じゃあ、また明日ね」と岬は克也に微笑んだ。
 克也は何かを言いたそうに口を開いたが、すぐに口をつぐむ。
 その様子を見ていた水皇は僅かに口元を緩めた。
   
  「おい克也」
  「はい?」
 克也は水皇を振り返った。
   
  「岬ちゃんを一緒に連れてかなくていいのか?」
 水皇の言葉に克也は目を瞠った。
  「――、......どういう、ことですか?」
  「お前、ここんとこずっと『岬ちゃん、岬ちゃん』って――、 岬ちゃんのそばを片時も離れたがらなかったじゃないか。よほど一緒にいたかったんだろう、寝るときもずっと一緒だったじゃないか」
 にやにやと水皇は意味ありげな視線を送ってくる。
   
  「それは――、記憶が幼い頃に戻ってしまった時の話で――。正気に戻った今、とてもそんなことはできませんよ」
 顔を赤らめつつも冷静に言い返す克也。
   
  「だが、それがお前の本心だろ? あの時のお前の行動は、かなり強調されてはいるが、紛れもなく、お前の本心だよな?」
  「それは――......」
 水皇の言葉に、克也はさらに顔を紅くする。
   
  「今日は早く部屋に戻ってゆっくりしろって言ったのは、水皇さんじゃないですか」
 どこか憮然として克也は言った。
  「―― 岬ちゃんがいたらゆっくりできないってことか? 一体お前、何をするつもりなんだよ」
 からかうように水皇が言うと、克也はついに俯いてしまった。   
 そんな克也を見て、おかしくてたまらないというように水皇は肩を揺らして笑う。
   
  「ごめん。ちょっとからかいすぎたな」
 水皇は、大きく息を吐くと急に真面目な顔になる。   
  「いや、別に何をしても俺の関知することじゃない。克也、お前はもう自分で自分の行動にきちんと責任が取れるほどには育っていると、俺は信じているから」
 水皇の言葉に、克也がはっと顔を上げた。
   
      
   ******   ******
   

  「ごめん、ね。何か、わがまま言って......」
   
 岬は部屋の隅にちょこんと座り込み、上目遣いで克也を見た。
 時計は午後十時を回っている。克也は先ほどから言葉少なだ。
   
 先日、克也が鷹乃の術にはまり記憶が幼い頃に戻ってしまった時、余計な混乱を招かないようにと、水皇はこの屋敷に厳戒態勢を敷いた。現在はまだそれを解いていないため、この屋敷には本当に信用に足る人間しか立ち入れなくなっている。そのため、克也と岬について文句を言う者はいない。だからこそ、水皇はこの時を二人で有意義に過ごすようにと言ってくれた。それは、はっきりとではないが暗に克也の部屋に岬が行くことを勧めているような言い方だった。
 克也は戸惑いそれはできないと何度も言ったのだが、岬が行きたいと言ったことで事態は急転した。かくして、岬は克也の部屋へと来ることになったのだ。
   
 岬としては少しでも長く克也と一緒の時間をすごしたい一心でここまで来たのだが、落ち着いて考えてみると自分の行動がかなり図々しく思えて仕方がなくなってきた。
   『確か前に、一族の長の部屋には幹部クラスの人物でなければ立ち入ってはならないという暗黙のルールがある、って以前聞いたような――』
 そこに思い至り、さあっと血の気が引く気がする。
   
  「やっぱり......あたしなんかが、長の私室であるこの部屋に入ることは......いけないことだった、よね......」
 この部屋は代々長の部屋だという和室で、その造りからして厳かさを感じさせられるが、そこかしこに置かれた調度品も高級そうなものだ。
  『かなり......場違いな感じ......』
   
 克也は意外なことを言われたように、目を丸くした。  
  「あ......。いや......それは、大丈夫。お前は、俺の――、未来の......だから......」
 途中で微妙に口ごもり聞き取りづらい。その頬がわずかに紅い気もする。
  「とにかく、そのことについては問題ないから」
 そう言いながら少し落ち着かないそぶりを見せる。
    
  「本当に?」
  「―― 本当に」
 上目遣いに見上げる岬に克也は微笑んだ。
   
  「それよりも―― 岬こそ――大丈夫なのか?」
  「―― 何が?」
  「............」
 きょとんとした瞳で聞き返した岬の表情に、克也は呆れたようにふうっと息を吐いた。
   
  「お前、何も考えずに、ここに来たのか?」
  「え......?」
 岬は再び疑問符を返す。
 克也はしばらく岬の表情をうかがうと、視線を外して再び息を吐いた。
  「何でもない......」
 ばつが悪そうに視線を泳がせる克也を、岬はちらりと横目で見やった。
   
  
  『本当は分かってる。克也が何を言いたいのか......』
   
 こんな時間に、男の人の部屋に来るという―― 意味。
   
 緊張で指先が震える。
 緊張する理由となる感情について深く考えないように、岬は克也に近寄り手を伸ばした。岬のその行動に、克也ははっとしたように視線を戻す。
   
 岬は、克也の腰に手を回したまま瞳を閉じ、その胸に頭を預ける。
  「ごめん。......本当は、分かってる......」
  「俺こそ、ごめん。答えにくいこと、聞いた......」
 岬の髪に手を添えながら、克也が囁く。
   
 そのまましばらく静けさがあたりを支配した。
 僅かな空調の音が耳についてしまうほどの。
 けれど、耳を寄せた胸のあたりから聞こえる克也の速い鼓動が、岬の鼓動をも速めてゆく。
   
 そんな鼓動を誤魔化すように岬は口を開く。
  「大人になった方が『好き』とか、本当の気持ちを伝えることが、難しくなるような気がするね」
  「そうだな......」
 速まる鼓動と反対に、克也は静かに微笑んだ。―― そして。 
   
  「岬」
  「ん?」
 おもむろに名を呼ばれ、瞳を閉じたまま岬は夢うつつのような気分で答える。
   
  「お前のことが―― 好きだ」
  「......!!」
 克也の、思わぬストレートな告白に目を見開いたまま、岬は固まった。
  「今回のことで改めて思った。岬なら―― 弱い自分やかっこ悪い自分を見せても、決して俺から離れていってしまわないと心から信じられる、って。――  何万回好きだと言っても足りない気がする。こんなに、こんなに大切な存在を―― 俺は他に知らない......」
 そこで克也は言葉を切り、しばし沈黙する。   
   
  「岬――、愛してる」
 囁くように告げられたその言葉に、岬の涙腺は一気に緩んだ。
  「......克也......、あたしも......」
 言葉に詰まってその先がなかなか声にならない。
  「―― あたしも、克也のことが、大好き。―― 愛、してる」
 ようやくいえたその言葉に、克也が悪戯っ子のような視線を返した。
  「知ってる」
 岬は一瞬驚いて瞬きを止めた。
 その途端克也と目が合い、何となく照れくさくて岬は笑った。すると克也も同じだったのか、ほぼ同時に笑う。
      
 そして、噛みしめるように岬は言葉を紡ぐ。
  「あのね。あたし......分かった。――確かに子どもの時の方がたくさん好きだって素直に言えるけど――、好きの重さは、大きくなってからの方が何倍も強いね。―― たくさんは言えなくなるけど――、その分、相手のことを『大切だ』って伝える言葉のひとつひとつに重みがあって、心に沁みる。だからあたし――、子どもの頃の克也も大好きだけど......それでも、高校生の克也に戻ってよかったって思うよ......」
   
 克也は声を立てて短く笑う。 
  「その言葉が聞けてホッとした。子供の時の方がよかったなんて言われたら、立つ瀬がないからな」
 そう言って肩をすくめた。
   
 そして二人はしばし見つめあい―― どちらからともなく唇を重ねる。何度も何度も角度を変えて重ねられる唇は、だんだんと熱を帯び―― 重ねるたびに深くなってゆく。
 キスとキスの間の唇が離れるその瞬間、岬の口から甘い吐息が漏れ、それに呼応するように岬の頬に添えられた克也の指に力がこもる。
   
 再び唇が離れて岬が克也の名を呼ぼうとした瞬間、克也の唇が岬の頬に触れ、次に顎、そして首筋へと――。
 びくりと自然に体が反応して思わず身を縮めると、克也はそっと頬に添えていた指をそのままゆっくりと肩へと落とした。
 体の奥がじいんと痺れるような不思議な感覚に、岬は身を任せる。
   
  「岬......」
 切なく響く、克也が岬の名を呼ぶ声。
   
 克也の指がゆっくりと肩から鎖骨の辺りへと這う。その感触に岬の体温が一気に上昇した。
   
 きつく閉じた岬の瞳には何も映らない。その代わりに視覚以外の感覚が妙に冴え渡る気がする。
 克也の少し荒い息遣い。皮膚を伝う克也の体温。くすぐったいのとは少し違う、体の奥からこみ上げる疼き。
    
  『どうしたらいいのか......わかんない』   
 頭では『それ』がどういうものなのか、分かってはいた。覚悟もしてきた。
 けれど実際にその場になると、訳が分からなくなる。
 その感覚の行き先を、岬はまだ知らなかった。

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