特別な部屋(1)
克也の指先が岬の胸元に降りて――、ぎこちない仕草で岬の着ているシャツのボタンを外し始める。途中でもたついたのが分かり、岬は顔から火が出そうになりながらも自らいくつかのボタンを外した。
克也もまた、もどかしげに自分のシャツを脱ぐ。目の前の克也の広い胸板に、岬の心臓は悲鳴を上げそうになっていた。
胸を覆う布一枚残しているとはいえ、シャツのボタンが全て外され顕になった自分の胸元の恥ずかしさに耐え切れず、それを隠すように岬は克也の背中へと手を回した。
「岬」
名を呼ばれ、その体勢のままで顔だけおずおずと上げると、克也の熱っぽく揺れる瞳とぶつかった。その瞬間、克也は再び唇と唇を軽く触れ合わせる。
二人は吐息を絡ませたまま、抱き合う形でゆっくりと崩れるようにほぼ同時に畳へと膝を落とす。
克也の手が岬のシャツを背中側へとそっと押しやった。
膝立ちで上体を少しひねるようにして姿勢を低くし、岬の肩を両手で支えながら克也は唇を岬の素肌に滑らせる。唇から頬を伝い、耳たぶ、顎へと。そして自分が手をかける肩にも口付けを落とす。
そうしながらもその指先はさらに岬を求め、未だ岬の胸を覆う最後の一枚に掛かろうとする。
その時――、克也の動きが止まった。
正面から抱き寄せる格好で動きを止めた克也を、岬は怪訝に思いながらもゆっくりと息を整える。
「克也......?」
見上げるが、抱き寄せられているために、克也の顔が見えない。
黙ったままの克也に、岬の不安が押し寄せる。
「岬......これは......どうした?」
克也の少し怒ったような口調に、岬は克也が何のことを言っているのかに思い当たり、さあっと血の気が引くのを感じた。
『そうだ、背中の傷――』
鷹乃の攻撃から克也を庇って負った傷のことを、岬は克也に言っていなかった。
先ほど尚吾たちと話をすり合わせた時に分かったことだが、記憶が幼い頃に戻っていた間の高校生としての克也の記憶は、幻覚と現実が入り混じっていて、その多くは幻覚の中にいたというのだ。だから岬と記憶の幼い克也が過ごした時間のほとんどを、高校生の克也は、いくつかの場面を断片的にしか知らなかった。
克也を庇って岬が背中に傷を負ったことも高校生の克也は覚えていないようだったので、そんな中でわざわざそのことを克也に知らせるのは押し付けがましい気がして嫌だった。それでも、別に隠すようなことでもないので、聞かれたら答えようとは思っていたのだが、そういう話にはならず、結局言いそびれていた。
それに克也の部屋に来る前、涼真から再び癒しの術を受けてから、さらに医師の治療も受けて来たため、傷の見た目は派手だが痛みはかなり退いていて、そのおかげで岬も傷を気にすることを忘れていた。
「ごめん......」
「謝らなくて良いから......!」
声を荒げたことに自分ではっとしたのか、克也は口に手を当てて深く息をした。
「俺の方こそごめん。別に岬を怒ってるわけじゃないんだ。ただ――、この傷がどうしてついてしまったのか......説明して欲しい」
無理やり感情を押し込めたようで、それでいて静かな声で克也が言った。
「これは......、鷹乃の攻撃を受けて......」
「―― うん」
何となく見当はついているのだろう。克也はそこに疑問は差し挟まなかったが、間髪入れずに次の質問に移る。
「......鷹乃は、岬を......狙ったのか?」
岬は一瞬言葉に詰まった。
鷹乃はあくまでも克也を狙っていた。けれど、それを今伝えることで、克也が責任を感じてしまうかもしれないことが岬には嫌だった。
その一瞬の間を克也は敏感に感じ取ってしまったように、低く呟く。
「......いや、違うな。岬は―― 俺を、庇ったんだな......?」
射抜くような克也の瞳に、ごまかせないと感じて岬は頷いた。
その途端、克也の表情が苦しげに歪む。そして、
「ごめん......」
と、振り絞るような声で謝った。
「や、やだなあ。そんな顔、しないでよ、―― 大丈夫だってば。涼真さんにかなり癒してもらったし、さっきここに来る前にお医者さんに診てもらって治療もしてもらってるし......」
この重い雰囲気を飛ばしたくて、岬はわざと明るい調子で言った。だが、克也の表情は晴れない。
「尚吾の言うとおり、俺がもっと早くに戻っていれば......」
唇を噛みしめる克也に、岬は首を横に振る。
「あたしが、『自分のために』やったことだよ。何度も言うようだけど、克也を守れたんだから、こんな痛みなんてたいしたことない。今あたしは克也がこうして無事でいてくれて心からよかったと思ってるの。それなのに謝られたら困っちゃうよ。克也だって命がけであたしを幸一から、そして鷹乃の術から救ってくれたじゃない。それと同じだよ」
『自分のために』を強調して岬は言う。
克也はそんな岬を見て目を細め、
「岬が、俺を生かしてくれたんだな」
と、しみじみと呟いた。
そして、背中の傷を避けるようにして岬の首の後ろから腕を回し、手でふわりと軽く岬の肩を引き寄せる。
「ありがとう。でもやっぱり、ごめん――」
「だから、気にしないでいいのに」
やはり謝る姿勢を崩さない克也。岬は克也の胸にもたれ、笑って目を閉じた。
「傷跡―― 残らないといいけど。女の子なのに」
克也は心配そうに呟く。
「うーん。まあ、傷は薄いに越したことはないけど......。でも、たとえくっきりと残ったとしても構わないよ。それは克也を守れた証―― あたしはそれを誇りに思える」
そう言って、克也の背中に回した手に力をこめた。
「岬......」
克也は岬の名を呼び、再びその唇に口付けを落とす。
溢れる愛しさをその唇から岬に全て注ぎ込もうとでもするように、強く、深く、長く。
その思いは唇を離れ、やがてまたゆっくりと顎から下へと、何度か着地しながら滑るように降りてゆく。そんな克也の唇が岬の鎖骨をなぞり――、岬は堪えきれずに甘い吐息をこぼした。
だが、背を反らせた岬が自然とその場に背中から倒れこむような体勢になりかけ――、克也は岬の肩のあたりに腕を回し、そうならないように自分の方へ引き寄せた。
「背中......当たると痛いだろ?」
「―― 少し......ね」
乱れた息を落ち着かせながら岬は答えた。
確かに、耐えられないほどではないが、直接背中を何かにつければ、痛みはまだある。
克也はしばらく岬を軽く抱き寄せた格好のまま、何かを考え込んでいた。そして大きくひとつ息をつく。
「今日は、やめよう。今はまだ岬の傷のこと気遣う余裕があったけど――、このままいったら俺、多分そんな余裕なくなる。そうしたら絶対に無理をさせてしまう......。まだ傷が完全に癒えていないのに、無理はさせられない」
「克也......あたし、大丈夫だよ?」
痛みはあるが、岬自身今日は......という覚悟もあり、またここまで盛り上がった気持ちを持て余しそうで、岬は首を振った。
「岬に無理させてまで、自分の欲望を満たそうとは思わない。そのくらいの理性はあるよ......。こういうことは、岬が回復してからでも遅くない」
「でも......もう克也とこうしていられるのは今日明日しかないんでしょ?」
岬は少し焦っていた。
確かにまだ痛みは完全に消えていないこの状態だし、克也が自分を気遣ってくれるのは嬉しい。そんな優しさに本当に愛しいと思う。
だが――、また明後日から同じ家にいながら、思うように一緒にいられない日々が始まる。一緒の敷地内に暮らして分かったが、克也は一族の長として様々な『仕事』が日常的にこまごまとある。特に今は長期休みに入っているせいか、昼間だろうが夜だろうがそれはおかまいなしにやってくる。会いに来る人も多い。そんな克也を見ていると、彼が一族の長で自分がまだただの居候だということを、否応なく現実として目の前に突きつけられてしまう。もちろん、こんな風に長の部屋に堂々と出入りできるなんてまず考えられないだろう。だから今を逃したくない気持ちが大きかった。
克也は少し岬を離し、
「大丈夫、俺たちにはまだ時間はたくさんあるんだ」
幼い子に言い聞かせるように岬の目線まで視線を下げて言った。
「だってせっかくこんな風に――堂々と一緒にいられる時間......滅多にないのに。嫌だよ......自分の部屋に戻りたくない、今日はもっと、克也と一緒にいたい」
焦る岬の頬に克也は優しく触れた。
「部屋に戻れだなんて、言わないよ」
克也は笑った。
「岬を抱くのは今はやめるけど――、一緒にいたいって思いは同じだよ。だから......今夜は岬と眠りたい。―― いい、かな?」
岬はまた一気に頬に熱が集まる気がした。それをごまかすように、岬は首を大きく縦に振って、そのまま俯いた。
そんな岬に微笑みながら――、克也は手を伸ばし、先に落ちていた岬のシャツを拾い、そっと岬の肩にかける。そしてその後で自分のシャツも羽織り、口を開いた。
「あのさ......」
小さく、何だか言いにくそうだったので、岬ははっと顔を上げる。
克也は少し視線を泳がせ、それから再び岬へと視線を戻す。
「さっき......、既に余裕なくて――、移動しようとか頭になかったけど......。実は......寝室は奥なんだよね」
ばつが悪そうに克也は自分の頭の後ろに手をやった。
「えっ、奥にまだ部屋があったの!?」
心底驚く岬に克也は微笑んで頷く。
「そう。それこそこの部屋以上に――、長の正式な相手、ぐらいしか入れない、特別な部屋」
『長の正式な相手』という言葉に、岬の心臓は大きく跳ねる。
克也は照れからかこういう言い方をしたが、つまりは『正式な妻』じゃなければ入れない部屋ということだろう。
「一緒に、来て」
そう言って克也が手を差し伸べる。
「いいの?だって―― あたしまだ正式な、奥さんじゃないよ?」
ためらう岬の瞳を、克也は真顔になって真っ直ぐに見つめた。
「俺の相手は、岬以外には考えられない。だから―― お前以外に俺が誰かを自分の相手としてここに入れることは絶対にない。今も、未来も、俺が共に在りたいと思うのは岬だけ。入る時期が少しばかり早くなっただけと思えば―― 何の問題も無い」
克也の言葉に岬の鼓動はさらに早くなる。さらりと言ってはいるが、何だかものすごいことを言われた気がする。
「ありがとう、克也」
差し出された克也の手の平に、岬は笑顔で自分の手を重ねた。