恋情の行く先(1)
あなたに特別な感情を抱いてはいけないと頭では分かっている。
けれど、心の奥底に響くあなたの声、艶めく瞳、時折触れる指が、私の心をかき乱す。
全ての決心さえも無にしてしまいそうな魔性の魅力。
―― けれど、私は既にあなたを裏切っている。
私たちの間を隔てる壁は海より空より高く、たとえ神様が許しても私自身が許さない。
あなたは他人には滅多に本当の自分を見せない。
孤高の長。
でも私は知っているの。
―― あなたが誰より優しい人だということを。
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外は真夏の太陽が照りつけ、じりじりと焼けるような暑さだ。
都の中心部にそびえる中條エンタープライズの本社ビルの最上階。
中條御嵩は空調の効いた室内の窓枠に手をつき、まるでミニチュアのような建物や車、人々を見下ろしていた。
「みんな、自分の意思で動いてるなんて信じながら、あくせく働いて、やがて使い古されて死んでいく。こんな風に見下ろす誰かの手の内で遊ばれてるとも知らずにね......」
そう言って肩を竦める。
「まあ、僕は――、そんなのごめんだけど」
自分は誰かの手の内で転がされるなんてごめんだ。
―― どうせなら、転がすほうに回る。
御嵩は口の端を上げた。
その時――、おもむろにノックの音が部屋に響いた。
「御嵩様、例の方がお見えです」
「どうぞ」
御嵩が歓迎の意を伝えると、僅かな間のあとで秘書がドアを静かに開けた。
その向こうに立つ人物を見て御嵩は微笑んだ。
「来てくれたんだね。嬉しいよ」
あくまでビジネスライクな笑顔をにこにこと湛えながら、御嵩は相手に視線を向ける。
だが、向けられた相手は、そんな彼のことなどどうでもいいように、黙って僅かに視線をずらした。
「つれないねえ。――まあ、仕方ないといえば仕方がないことだけどね」
御嵩はわざとらしくため息をき、腕を組んで首をかしげ、子犬のようなかわいらしい仕草で相手を見上げる。
「ただねえ。一緒にこれから動く以上、もう少し友好的な態度を示してくれたほうが、こちらとしてもやりやすいのだけれどね......」
そう言って、今度は真っ直ぐに目の前の相手を見据える。有無を言わせない長の瞳になった御嵩に、相手が僅かに眉をひそめる。
「......まだ、協力すると決まったわけじゃない」
「―― おやおや。こんなところにわざわざ出向いて来てまで、まだそんなことを?」
わざと驚いたような表情を作る御嵩に、相手は唇を噛みしめる。
「―― すまない。往生際悪く、戯言を言った」
「ふふ。あなたは意外にかわいらしい......」
茶化すような御嵩の言い方に、相手は僅かに視線を鋭くした。
「いいでしょう。まだ迷いがあるようですが、実際に動けばそれも気にならなくなるでしょう。あなたは芯の強い人だ。あなたの目的を思い出せば、自分が何を成せばいいのか分かるはずですからね」
「当然だ」
主従関係ではなく、あくまで対等であろうとする相手の言い方。その者のプライドが窺える。
『それなのに、よくもまあ、こちらの要件をのんだものだ』
その姿勢は、ある意味感心に値する。
そうしなければならないほど、よほどの強い想いがあるということだろう。
「では一週間後、またここに来ていただきます。前日になったら、また連絡を入れますからね」
相手のプライドに配慮して丁寧な態度を崩さず、御嵩は微笑んだ。
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その者が部屋を出るのと入れ違いに入ってきた麻莉絵は、微妙な視線を御嵩へと向けた。
「御嵩様、今の人って......」
御嵩は悪戯っ子のように笑い、人差し指を口元に当てる。
「驚いたかな?」
「はい。まさかこんなところで『彼女』に会うと思わなかったものですから」
「そうだよねえ。でもそろそろ――、彼女の『我慢』が限界に近づいている頃だと思ったんだよね」
「『我慢』 ―― ですか......?」
首をかしげた麻莉絵は、頬にかかった髪をうっとうしそうにかきあげ、その髪の束を耳へとかけた。
「うん、そう。人の心って、不思議だよね。これまでなんとも思っていなかったはずのことが、ふとしたきっかけで急に気になりだしたりするんだからね」
そう言って御嵩は、べっ甲色の眼鏡のふちをくいと人差し指と中指で上げる。
その仕草を見ながら、麻莉絵は笑ってため息をつく。
「御嵩様、そうやってまた、自分の世界に行っちゃわないで、ちゃんとあたしにも分かるように教えてくださいよ。寂しいじゃないですか」
「うーん、そう?別に意識して麻莉絵を煙に巻こうとしているわけではないんだけどなあ」
「嘘ですっ。御嵩様は誤魔化すのが超人的にうまいんですから。あたし、そんなに信用ないですか?重要なことは話せないと思うほど......。あたしは、こんなに御嵩様のことを――」
麻莉絵がそう言い終わるか否かのうち、何の脈絡もなく、
「麻莉絵は、僕が突然死んじゃったら、困る?」
と御嵩は口にした。
そのことで、麻莉絵の目がさらに大きく見開かれる。
「なっ、何言ってるんですかイキナリ!困るに決まってるでしょう!?―― 冗談にもほどがありますっ!」
本気で頭から湯気を出している麻莉絵に、御嵩は目を細めて微笑む。
「分かってる。君は僕のことが、だーい好きだってことはね」
ぎゅうっ、とその頭を自分の胸へと引き寄せる。
急にストレートな言葉を投げられた上に抱きしめられ、不意をつかれた麻莉絵は一気に赤面した。
「御嵩様......あたしをからかって遊ぶのはやめてくださいって、いつも言ってるじゃないですか......」
恥ずかしそうに小さな声で反論する麻莉絵の頭を撫でる。
「ごめんね。麻莉絵は怒った姿もかわいいから、ついつい......ね」
笑って片目をつぶる御嵩に、目の前の少女は頬を膨らませた。自分にとって、とても大切で妹のような存在である彼女のかわいらしさに、自分は随分楽しませてもらっている。ここ何年か、『もう子どもじゃない』と主張するようになった本人には、とても言えないが。
「悪かったよ、麻莉絵。聞いてみたかっただけなんだ。僕もたまには、愛情を確認したくなるのかもしれないね。僕もほら、孤独な人間だから」
笑顔を浮かべながら、麻莉絵の肩をぽんぽんと軽く叩く。
「御嵩様には、あたしがいます......。誰が見離したとしても――」
言いながら、麻莉絵ははっとしたように言い直す。
「あっ、すみませんっ。もちろん、御嵩様が皆に見離されるわけないですけど!!ものの例えです例え!」
少々焦りながら笑顔でそう言う彼女に、御嵩は心からの微笑を向けた。
「ありがとう、麻莉絵。頼りにしてるからね」
御嵩の言葉にホッとしたのか、麻莉絵は恥ずかしそうにほんのり頬を染めて笑った。
少しの間のあと、
「愛するものを永遠に喪うということは相当な絶望を伴うものだよね」
静かに呟くと、麻莉絵がきょとんとして顔を上げ、御嵩を見た。
御嵩の呟きは麻莉絵に向けたようでいて、それだけでもなかった。
瞳を閉じて天井を仰ぎ、言葉を続ける。
「それが恋人ならなおさら......ね」
どこか皮肉ったような微笑みと共にもらした御嵩の小さな独白は、静寂へと吸い込まれていった。