恋情の行く先(2)

 朝という時間としてはだいぶ経ったが、まだ昼には遠い―― そんな時間に、女性が一人、緑の庭園の中を歩いていた。
 外国映画に出てきそうな洋風の、広々とした庭は薔薇園である。
 今は緑だけのこの庭も、季節になれば色とりどりの花が一面に咲き誇り、主を喜ばせるのだ。
  「まるで悠華のためにあるような整ったおしゃれな庭ね。―― 闘いに生きる私には、似合わないけど」
 肩を竦めて独り言を呟き、女性―― 水城麗華は歩みを進める。


  「悠華」
 麗華はその向こうに腰を落として熱心に薔薇の世話をしている女性に声をかけた。
  「―― なあに?」
 声をかけられた女性―― 悠華は、手を止めずに声だけで極自然に答える。まるでそずっと前から背後に立っていた人物と会話するかのように。     
 振り返りもせずに答える悠華に、麗華は肩をすくめる。
  「『なあに』じゃないわよ。そんな作業、わざわざあなたがやらなくても庭師にやってもらえばいいじゃない。朝とはいえこんな暑い時期に花の世話だなんて。体に障るわよ」
  「それじゃつまらないじゃない。自分でやるから楽しいんじゃないの。それに、花たちの世話は朝やるのが一番いいのよ。大丈夫、ちゃんと水分もこまめに摂って、時々休むようにしているから」
 悠華は人の心配などまるで気に留めていない様子だ。
  「それなら、いいけど......無理し過ぎないでよ」
   
 麗華は華奢で線の細い妹の、透き通りそうな腕を見つめて小さくため息をつく。
 この妹は、無理をするとすぐに体調を崩す。
 しかも始末の悪いことに、本人には無理をしている自覚はないのだ。
   
  「小さいときは丈夫な子だったのにね......」
 ぽつりと呟く。
 妹は小さい頃は滅多なことでは風邪も引かないような子だった。むしろ自分の方がよく体調を崩していたような気がする。
 自分たちの家は代々『癒しの力』を引き継ぐ家系であり、さらに少々他の厄介ごとも抱える『家』である。
 小さい頃には全くかけらも感じられなかった悠華の力が、ある時から強い輝きを持って発現し、さらにもうひとつ『先見の力』というおまけまでついてきた。
 思えば、よく体調を崩すようになったのもその頃からのような気がする。強い力を身に宿せば通常はその分、体への負担がより重くなる。悠華の体調不良も、力の発現が引き金になったのかと思えば、この妹の背負うものの大きさを痛感せずにはいられない。
   
 だからこそ幸せになって欲しい。
 自分たちの一族の面倒なこととは関係のない、安住の地で。
 そう思えばこそ、こちらは色々と世話を焼いているというのに、目の前の妹は全くそんなものお構いなしに無茶をする。
   
  「そんなことより、そろそろモーニング・ティーブレイクにいい時間ね。ちょうど今日の作業はこれで終わりだから中に入りましょうか」
   
   
   ******   ******
   
   
  「我が婚約者殿はお元気?」
 そう言いながら悠華は慣れた手つきで高い位置から湯を注ぐ。さらり、と長い髪の一部が背中から肩を伝い、鎖骨の辺りへと零れる。
   
  「何を言っているの。あなたの婚約者なんだから、あなたから会いに行かなきゃダメじゃない」
 そんな姉の言葉に、悠華は一瞬動きを止めた。そしてポットの蓋をし、保温のためのティーコジーをすっと被せる。
  「あの人は私の来訪など望んでいないわ。何しろ私はあの人にとって不吉な予言を行う魔女みたいな存在のようだから」
 そう言いながら悠華は何でもないように微笑む。
   
 麗華はその整えられた薄茶色の細い眉をすうっと中央に寄せる。
      
  「御嵩はあなたのことを誤解しているの。もっとたくさんの時間を費やせばきっとあなたの良さを分かってくれる。そのためにはもっと......」
  「私ね。もう足掻くことはとうにやめているの」
 麗華の言葉を遮るように悠華はきっぱりと、やや強い意思を滲ませて言い切った。
   
  「悠華......」
 たしなめるようでもありながら、どこか呆れたような響きを持って麗華は妹の名を呼ぶ。悠華は一瞬眉をひそめた。だが、やがて穏やかに瞳を閉じて微笑む。
  「お姉さま。私は御嵩が好きよ。たとえ、あの人の瞳が私を映さないとしても、愛している。でも、それでいいの。それ以上は求めない」
  「そんな修行僧のようなことを言っているからあの人に誤解されたままなのよ。もっと悠華はその思いをあの人にぶつけるべきよ」   
  必死に訴えかける姉に、ふふふ、と悠華は肩を揺らした。
   
  「お姉さま、―― それを、あなたが言うの?」
  「――え?」
 驚いたように視線を上げる麗華に、悠華は薄く微笑む。
   
  「そんなお姉さまが一番修行僧のようなのではないの?自分の気持ちに蓋をして」
  「―― そんなことはないわ。」
 少しだけ間が空くものの、きっぱりと否定する麗華に、悠華は目を細めた。
  「残酷なお姉さま。あの人の気持ちがどこに向いているのか、分かっていて、切り捨てるというのね」
  「誤解よ。私と御嵩の間には何もないわ。一時期、周りが勝手に騒いでいただけ」
 麗華は少し語気を強めた。
   
 そこで二人の間に微妙な空気の沈黙が流れる――。
   
 沈黙を破ったのは悠華だった。
   
  「―― もう、この話はよしましょう。せっかくのティータイムが台無しになるところだった。お姉さまが一度気持ちを決めたら動かない性格だということは重々承知だというのに、他ならぬあの人のことだと私も熱くなってしまってダメね。あの人の話を持ち出した私が悪かったわ」
 肩をすくめ、小さく息を吐く。
  「悠華......。あなたそうやっていつまで誤解を―― 」
 言いかける麗華だが、悠華は目配せをしてそれを制し、すっと話題を違うことへと移した。
   
 穏やかな時間が再び流れ出し、悠華は流れるような手つきでポットから目の前の二つのティーカップに紅茶を注いだ。
   
   
   ******   ******
   
   
  「それじゃ、また来るわね」
 微笑む麗華に、悠華もまた微笑みを返す。
  「お姉さま、今度はゆっくり、泊まりにでもいらして」
  「ありがとう。そのうちね......」
 そう言って片手を顔の横に上げると、麗華はゆっくりと悠華から遠ざかってゆく。
   
   
 悠華は遠ざかる姉の背中に向かって、よほど近くで注意して聞かなければ聞き取れないほど小さく、呟く。
  「全く、のん気なもんだよなあ」
 否、悠華とは表情も口調も全く違う。
 麗華はこの自分の存在―― 『ゆうと』を全く知らない。
   
  「知らないくせに......。『あの時』―― 御嵩が一晩中誰の名を呼んでいたのか――。そしてそれをずっと聞かされた『悠華』の思いもな」
   
 御嵩と『悠華』とが結ばれたのは一度だけ。
 それも、最悪の形で。
   
 そこから『悠華』が今の境地にたどり着くまで、どんなに苦しい思いをしたのか、麗華は知らないだろう。この心境を責められるのは『悠華』としてもささか腹の立つことではあるということは別人格の自分にも伝わってくる。
 けれど、御嵩の姉への想いを十分に利用して自分も生きている以上、姉を責める道理もないのだと、謙虚な悠華は思っている。そのいじらしさが別人格な『ゆうと』を苛立たせる。
   
 御嵩は、本当に愛している麗華との約束を違えない。麗華が御嵩のそばにいる限り。
   
 今は形式的にでも、何でもいいのだ。
 『悠華』が御嵩のそばにいる口実があれば。
      
  「最後に笑うのは、『悠華』だよ」
      
 ―― 自分の存在は、『悠華』の本当の幸せのためだけにある。
   
 鮮やかに、『ゆうと』は笑った。

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