ダブルの記憶(3)

 利衛子の声に、岬までもびくりと体がこわばるのを感じ、振り返る。
   
 数メートル離れた場所――、建物の際に利衛子が立っていた。離れていてもその身にまとうぴりぴりとした空気が伝わってくるようだった。利衛子は岬の横の颯樹を見据えたまま、足早にこちらへと歩を進めた。
   
 そして、思わず立ち上がっていた岬と颯樹の目の前でぴたりと止まる。   
   
  「岬ちゃんに――、何を言ったの?」
  「そんなに怒らないで、たいした話しはしてないから大丈夫だよ」
 颯樹は困ったように眉根を寄せつつも、微笑む。
 だが、利衛子の表情は厳しいままだ。
  「なんで今更頻繁に現れるようになったの?あんたは一族の中枢からは手を引いたはずでしょ!?―― 克也は今、ようやく幸せになろうとしてる。そんな時にあんたに周辺をうろちょろされるのは迷惑なの!」
 そう、一気にまくしたてる。
   
 利衛子の様子に、颯樹はわずかに肩をすくめた。
  「―― 私だって克也には幸せになって欲しいよ。つい――、懐かしくなって軽々しくここにきちゃったことは反省してる」
 その言葉に、利衛子はぴくりと眉の端をあげた。
  「あんたは――、......あんな去り方をしたくせに、こんなに簡単にのこのこ帰ってこられるんだね......。―― 克也に幸せになって欲しい?―― それをあんたが言うわけ?」
 言外に皮肉を含ませて利衛子は笑う。
  「本当に幸せになって欲しかったら、遠くから見つめる今までの態度を崩さないのが普通でしょ?それを―― こんな風に今、こんな短期間に二度も現れる意味は何?」
  「それは――......」
 颯樹は言いよどんだ。
   
 そこで少しの間があいた。
 利衛子の拳がわずかに震えているのが岬にも見て取れる。
 やがて、利衛子は再び口を開く。
   
  「颯樹、あんたの思惑が何なのかは分からない。でもね、克也は今、岬ちゃんと一緒に、ようやく過去のいろんなことから立ち直ろうとしている最中なの。だから―― 邪魔しないで!」
  「そんな!......私、邪魔なんてするつもりないよ。私は本当に、克也に幸せに――」
 颯樹の言葉を最後まで聞き終わらないうちに、利衛子は自分の言葉をかぶせる。   
  「あたしは――、あんたが五年前、克也に吐いた言葉を忘れない......。どんなに時が経っても、絶対に。あの言葉だけは許せないの......」
  「―― 何の、話?」
 颯樹は意外そうに目を瞠り、眉をひそめた。
 利衛子はそんな颯樹を真っ直ぐに、冷ややかな瞳で見返す。
   
   
  「―― 『あなたが、死ねばよかった』 ―― 」
   
   
 利衛子の口から出た衝撃的な言葉に、向けられた颯樹の表情はこわばり、岬もその場に凍りついた。感情のこもらない、否、わざと感情を取り払ったような言葉。それは利衛子自身の言葉ではなく――
   
  「忘れたとは言わせない。颯樹、あんたが克也に言った言葉だよ」
 そう言いながら腕組みをし、颯樹を見据える。
   
 少し間をおいて昂った気持ちを落ち着かせるように、深く息を吸って吐くと、利衛子は再び語り始める。
  「智也のことがあって、もう精神的にぎりぎりだった克也に―― あんたが浴びせた言葉。あんたは克也にとってこの言葉がどのくらい破壊力を持っているかを十分理解した上で使った」
   
 颯樹は少し俯き、唇を噛みしめた。
 再びその場にいやな沈黙が流れ――、容赦のない暑さはじわじわとその場にいる者を襲う。
   
   
 衝撃的な言葉。
 岬はそれがどんな状況で発せられたものなのかは全く分からない。
 けれどその言葉は、克也が実の父親から浴びせられた、『お前は影だから、智也のために死ななければならない』という言葉にも匹敵する。いや、むしろ、一度父親からの言葉を浴びせられた傷が癒えないままの状態で、さらにその言葉を重ねられたら、さらに深く克也の心に突き刺さったであろうことは想像に難くない。
   
  『克也......』
 胸の前で拳を握り締める。その時の克也の心の痛みが胸に迫ってくるような気がした。
   
 やがて意を決したように颯樹は顔を上げる。 
  「―― 忘れてないよ。確かに、そう言ったことを覚えてる。でも――あの時は、私もぎりぎりだったの。智也を失ったショックで精神的におかしくなっていて......感情の制御が利かなかった......。でも今は本当に克也に幸せになってもらいたいの」
 真っ直ぐな颯樹の瞳は、岬には嘘を言っているとは思えなかった。だが――、
   
  「......簡単に言ってくれるね......」
 うめくように利衛子は呟いた。
  「簡単にじゃない!私だってこう思えるまでものすごい時間がかかったんだから!」
 颯樹は少々声を荒げた。
   
 そんな颯樹を見つめ、利衛子はさらに拳を震わせる。
  「そう―― だね。あんたにとっては思わず出てしまった、っていう程度のことだったのかもしれない。あんたにとっては智也が一番で――、あんたのその軽はずみな言葉のせいで克也がどんな行動に出るかなんて考えには至らなかったんだろうけど......。でもね、そのおかげで克也は――。あんたには知らされなかっただろうけど、あの日、あんたが言ったことで、あと一歩で取り返しの付かないことになるところだったんだ......!」
   
  「どういう、こと?」   
 颯樹の表情が明らかに変わったのが、岬にも分かった。
   
   
 その時、少し離れたところから聞きなれた声が聞こえる。
   
  「利衛、もういい」
 その声に岬が振り返ると、克也が立っていた。
 本人の登場に、利衛子も少しだけばつの悪そうな表情を見せる。
   
 克也は、利衛子と岬の後ろまで歩き、再び立ち止まる。
  「颯樹......ごめん。利衛は......」
 克也が何かを言いかけるのを颯樹は遮った。
  「大丈夫、分かってる」
 ふわりと微笑む颯樹に対し、やはり克也の表情は硬い。だが、二人に他の誰にも立ち入れない意思の疎通があることは明らかで――、岬は思わず自分の拳を握り締める。
   
 そして。
   
  「颯樹、待たせたな」
 克也の後ろから、実流がゆっくりと歩いてきた。どこかホッとしたような表情を浮かべながら颯樹は実流に向かって話しかける。
  「おじ様、もうお話は済んだの?」
  「終わった終わった。ごめんな、長くなっちゃって」
 実流は人懐こい笑みを湛えて頭をかいた。
   
  「―― じゃあ、用は済んだし、帰りましょ」
 鮮やかな笑みを残し、颯樹は踵を返す。
   
 だが、数歩歩いたところでふと立ち止まり、振り返った。
   
  「岬さん」
 急に名前を呼ばれ、岬はどきりとする。
  「少しの間だけど、話ができて嬉しかった」
  「あ......あたしも......」
 岬が少々どもりながら答えると、颯樹の視線が自分のそれと交差した。
   
  「身体大事にして......、克也と―― 幸せになってね」
 そう微笑む颯樹の表情が、なぜか切なさを帯びている気がして―― 岬は言葉を発することができなかった。   

   
   ******   ******
   
   
 颯樹と実流の姿が見えなくなると、まるで呪縛が解けたように残された三人はいっせいにため息をついた。
 あまりにもタイミングが良すぎたため、思わずお互いに目を見合わせる。
   
  「ちょっとお、何なのよ、この息ぴったりの対応は」
 最初に口を開いたのは利衛子だった。
   
  『よかった......もういつもの利衛さんだ......』
 岬の安堵の気持ちを読み取ったのか、利衛子は岬の正面からがしっ、と岬を抱きしめる。
  「ごめんねえー、岬ちゃん。怖い思い、させちゃったね......。―― ダメだわ、あたし。もういいかと思ってた時期もあったんだけど......。実際に颯樹を見るとまだ感情をコントロールできないよ......」
 そのままの体勢で独り言のように、そう口にする。
   
 利衛子に抱きしめられながら、ちらりと克也の方に目をやると、克也は視線を遠くにさまよわせたまま、思いに沈んでいるようだった。
   
  『颯樹さんのことを―― 考えてるん......だよね』
 そう思うと、心がざわめく。
  「克也」
 思わず岬は名を呼んだ。続いて目の前の利衛子に呼びかける。
  「利衛さん」
 利衛子が岬を離し、見下ろした。  
   
  「さっき言っていた『取り返しなつかないこと』って何?」
 岬の問いに、利衛子の身体がこわばるのを感じる。視線を移すと、克也もまた利衛子と同じく表情を硬くしていた。

  「あたし......もう、聞いてもいいよね?あの人―― 颯樹さんと克也の間にあったこと」
  「―― 岬......」
  「颯樹さんは智也さんの婚約者だったってことは分かってる。でも――、それだけじゃないよね?克也の、あの人を見つめる目が、特別だってことにも気づいてる」
 克也は心底驚いたように目を見開いた。
   
  「あたし、あの部屋に連れて行ってもらえたってことは、未来の克也の奥さんだって信じていいんだよね?だったらあたし......克也の全てを、教えてもらう権利があるよね?」
 少々ずるく、きつい言い方をしていることは岬も自覚していた。だが、もうはぐらかされるのは嫌だったから、その感情に任せて言葉を紡ぐ。
   
  「岬」
 克也が岬を呼び、何かを察したように利衛子がそっと岬のそばを離れる。
 克也はそっと岬の頬に触れる。
  
  「お前に、こんなことまで言わせて――、ごめん。......もちろん、岬には知る権利がある」
 そこまで言って克也は視線を下に移した。
  「いや―― そうじゃない。権利とか、そんなことじゃなく――、一人の男として俺はお前に、話さなければいけないんだ。ただ――......」
  「ただ?」
 岬は克也を見上げる。
   
  「―― それを話すには、長い時間が要る......。今ここでは無理だ。」
 克也は、岬の存在を確かめるように、ゆっくりと頬のラインをなぞる。
   
  「今日の夕食後に――いつもの場所で」
 そう言う克也に、岬は神妙な面持ちで頷いた。

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