ダブルの記憶(6)

  「闇雲に逃げて......どこを彷徨ったのか覚えていない。けど――、途中で、はっとした。全てから逃げたことが――急にとてつもなく恐ろしくなった。それで......おそるおそるひき返した。でも――、途中で......俺を探しにきた利衛子に会って――、止められた。もう......遅かったんだ......」
   
 克也の震えが岬にも伝わってくる。
 極力抑えようとしているのが白くなるほど握られた拳で分かるが、それ以上に心の動揺が体全体を支配しているようだった。
   
  「全てが―― 最悪の形で......終わっていた――。智也は......俺の代わりに、奈津河の......前に出て、そいつらから颯樹を救い出そうとしたんだと、後から聞いた。でも......相手が悪かった......。その時、その場にいた奈津河方を指揮をしていたのは、現幹部の内村光留―― といっても、その時はまだ内村は幹部じゃなかった。けど、実力は現長の中条御嵩と並ぶといわれるほどの――実力者だった。だから――、智也の力では――太刀打ちできなくて、っ......!」
   
 岬は、内村光留という人物を知らない。
 一時期奈津河方と行動を共にしていたが、御嵩の常にそばにいるほんの一部の人間しか岬は知らない。だから目の前の克也に何も言ってあげられないのがもどかしい。
 そして、御嵩と並ぶほどの力の持ち主がいるという事実にも岬は心の中の嵐が強まるのを感じずにいられなかった。
   
  「水皇さんたちが駆けつけたときには、まだ息があって――。......けど、もうとても助かる状態じゃなくて――。智也にとどめをさそうとする内村を遠ざけるのが精一杯、だったって......」
 克也の閉じられた瞳がまぶた越しに揺れる。
   
  「じゃあ......智也さんは、そのまま――?」
   
 岬が問うと、少し体を離した克也は、たまらなくなったように自分の口元を片手で押さえる。
 答えようとするものの、うまく言葉が出てこないらしく、そのままゆっくりと頷く。
   
  「いいよ。無理に話そうとしないで。少し休む?」
  「ごめ......。―― いい。だい、じょうぶ」
 岬の申し出を途切れ途切れに断った克也は、そこでゆっくりと深呼吸し、話を続ける。
   
   
  「自分の出した力のせいで智也の命が奪われることになるなんて――想像もしていなかった。ただ、恐ろしかった。やがて智也の葬儀が行われても、もちろん俺がその場に行けるわけもなく――。だから、もう智也がこの世にいないなんて――実感がなかなかわかなくて、呆然と日々を過ごしてた。――そんなある日......俺を取り巻く世界が一変した。」
   
 そこで克也の表情も厳しいものに変化した。
   
  「智也の代わりに、『長』になってほしいと―― まずは長老たちに言われた。さらに今まで自分を『影』だと俺のことを気にも留めなかった者たちまでがこぞって俺に頭を下げて――......。―― 正直、戸惑った。最初はもちろん無理だと断ったけど、そんなことで引き下がるような者たちではなくて......。水皇さんは俺の気持ちが固まるまで待つと言ってくれたけど、周りの者たちの押しは日々強くなって――、毎日続く説得に、気が付いたら首を縦に振ってた......。けど―― 承諾してすぐに後悔の念が一気に押し寄せてきた。でも、一度承諾してしまった以上、動き出した一族の者を止めることはもう不可能で――。そして――、そんな俺の前に、颯樹が現れた。―― 颯樹は、開口一番こう言ったよ。『おめでとう』って。」
  「え......?」
 思ったことと違っていたために、岬は思わず聞き返した。
 そんな岬の素直な反応に克也は目を細め、少しだけ口の端をあげた。微笑みのように見えたその表情は、どこか悲しげに見える。
   
  「―― その時の颯樹の表情を、俺は一生忘れることはできないと思う......」
 俯き加減で、克也は視線を少しだけ遠くに移した。オレンジの明かりが、彫りの深い克也の顔に濃い影を落としていた。
   
  「颯樹の瞳は、俺への憎しみで満ちてた......。あんな風に本気で憎んでいる目を向けられたのは、俺にとって初めてのことだった――」
   
 岬は、その時の克也の心の衝撃がどれほど強かったのか、想像できる気がした。
 自分も、本気の憎しみを向けられたことがある。その時の、体の芯まで凍りつくような衝撃は今でも忘れることができない。自分に罪の自覚があればなおさら。
 さらにこの話――、克也の場合、自分に憎しみを向けてくる相手は、自分が大切に思っている人なのだ。
   
  「『これで満足?』って颯樹は聞いた。『智也から何もかも奪って、智也のものだったものが全て自分のものになって、満足でしょうね』って......。」
  「そんな......!」
 思わず岬は眉をひそめ、声を荒げた。
 確かに結果的に智也のものが克也のものになってしまったけれど、それは克也が望んでしたことではないのに、そう言われるのはあまりにも理不尽だと思った。けれど、克也は静かに首を横に振る。
   
  「俺は自分がまいた種を、自分で回収しようとはせずに、全て智也に押し付けて、そして逃げた。卑怯者だ」
 自嘲するように微笑む克也に、岬はただ唇をかんで俯くしかなかった。
   
  「俺は智也を見捨てた。そんな俺を颯樹が憎むのは当たり前だよな......。憎しみに燃える颯樹の目を見て――、俺は改めて自分のしてしまったことの重大さに愕然とした。あまりの衝撃に、何も言えなかった。だって俺は颯樹の、笑顔を――、幸せな顔を見るのが好きだった。それなのに、その笑顔を、自分自身が奪ってしまったことを知った。ひどく後悔してももう遅かった――」
   
 克也の口にした『好き』の言葉が岬の心にちくりと痛みを残す。
   
  「颯樹は続けた。『あの最初の力は、あなたの力でしょう?あたしは智也の力を見間違うことはない。あんたが、あの事態を――智也の命を奪うような事態を引き起こしたのよ!それなのに克也、あんたは逃げた。智也を残して、あんたは――!許さない!絶対に許さない、一生許さない!!』―― そう、叫んで――......」
 克也は苦しそうに唇を噛んだ。
  「......『なぜ、元凶のあなたが生きてるの?智也が死んで――、それなのに、なぜ!?なぜあなたが生きているの!?』と――。そして最後に彼女が言った言葉が――」
   
 そこで克也は一旦言葉を置いた。
 そしてゆっくりと長い息を吐くと、岬の肩を自分の方へときつく抱き寄せる。
 そうしなければ自分を保てないとでも言うように、抱きしめた体を支えにしているように岬には思えた。
 しばしの後、覚悟を決めたように短く息を吸い、克也は続きを口にした。
   
  「それがあの、『あなたが、あなたこそが、死ねばよかった......!』だった」

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