ダブルの記憶(7)

 そう口にして、克也は俯き、しばし瞑目した。
 そのまま消えてしまいそうな気さえするほど『生気』が薄くなった気がして、思わず岬は克也の背中に回した手に力を込める。
   
  「それを聞いた瞬間、息が止まるかと、思った。幼い頃久遠の父に言われた『お前は智也の影だから、代わりに死ななければならない』という言葉がそれに重なった瞬間、息を吸うことも満足にできなくなって――。......その先は――、よく覚えてない。苦しくて立っていられなくなって――。ただ――、その場から泣いて走り去る颯樹が遠くに消えて行く姿だけが、ずっと視界に映っていたのだけは、鮮明に頭に残ってる......。そして、気がついたら俺は――」
  克也は目を開き、のろのろと視線を前方に向けた。
  岬もそんな克也から目を逸らせなかった。
   
  「気づいたら、自分の部屋で――、......ナイフを握りしめてた」
   
 ひやり、と背中に冷たいものが走る気がして、岬は声を出すことを忘れた。
 僅かに口元を緩めて静かに微笑む克也が、本当に消えてしまう気がして、震える手で、克也のシャツを握りしめる。
   
  「―― 俺は、自ら死のうとした。けど――、どうしても、できなかった......。いざ行動を起こそうとすると、母の―― 久遠の母の無残な最期の姿がまるで今そこにあるように目の前に迫ってきて――。その度に体が硬直して動かなくて――、何もできなかった......。―― 情けなかった......。智也を死に追いやっておきながら――、自分は死ぬことができないなんて......、なんてだめなヤツだと、思った」
   
 呆然と克也を見上げて震える岬に対し『大丈夫』とでも言うように、克也は手を伸ばして岬の髪に優しく触れる。
   
  「そのあと――水皇さんや基樹、それに蒼嗣の両親や利衛に必死で止められて――......、特に基樹に――『あなたが死ぬなら私も死にます。どうか死なないでください』と懇願されて――、もう死ぬことはできないと思った。自分のせいで近しい大切な人が死ぬのは、もう嫌だったから......。――でも、その代わり――、俺は『また』久遠の母を亡くした時のように、感情を表すことができなくなった。そして――、学校にも行かなくなった」
   
 それを聞いて、岬はあっ、と思った。
 初めて事実を聞いたときからずっと不思議に思っていたこと。決して成績が芳しくないわけではない、むしろ学年トップを狙えるほどの克也が、留年していた理由――......
   
   
  「それっ......て......」
 岬の考えを読み取ったように、克也は言葉を紡ぐ。
  「そう、それが俺の留年の理由。それから学校にはその学年が終わるまで行かなかった。補講によって足りない出席日数をなんとかしようとする学校側の配慮をことごとく拒否して――、学年末にはもはや小手先のごまかしではどうにもならないぐらいになってた。もちろん留年が決まってからも、学校に行く気なんてなかった。そのまま、ただ『生きてる』だけの人生を送るつもりだった」
   
  「そんなある日、ずっと会っていなかった颯樹から、突然呼び出しがあったんだ......」
   
 再び出てきた『颯樹』の名前に、岬はどきりとした。
  「颯樹さんから......なぜ?」
   
 岬の問いに、克也は少しだけ、言うことをためらうような表情をした。『何か』がある――そんな予感に、胸がぎゅっと締め付けられる。
   
  「―― その頃の俺には知らされてなかったけど、颯樹もまた俺と同じように学校に行かず、うつろに日々を過ごしていたらしい。......俺がその時言われたのは、智也のことで大事な話がある、とだけ。しかも本家を通した正式な呼び出しではなくて、以前智也がいた頃に俺たちだけでこっそり会う時に使った方法で呼び出された。――颯樹の......村瀬家の別荘に」
   
 一旦言葉を切り、岬を見ようとしない克也に、岬の不安はさらに加速する。
 やがて克也は、ゆっくりと言葉を選ぶようにして再び話を進める。
   
  「もしもあの時、水皇さんが知っていたら絶対に止められていただろうと思う。最後にあんな別れ方をして以来連絡のひとつも半年以上取っていなかった中での呼び出しで――、本当に颯樹なのか、俺としても半信半疑のまま行った。別荘に着くと、出迎えてくれたのは颯樹で――......、戸惑う俺に、颯樹は恐ろしいぐらいに―― 普通だった。まるで智也がいた頃に戻ったみたいに......。『元気だった?』って話から、缶ジュースやお菓子をつまみながらそれぞれ知り合いの近況を報告しあったり、本当に他愛のない話をして――。最初は戸惑いを隠せなかった俺も、少しずつ自然に話せるようになって――、もしかしたら時間が解決してくれて、本当にこのまま、元のような関係に戻れるのかもしれないと――、錯覚した」
   
 他人事のように淡々と話を進める克也の横顔を見つめながら、岬は心にじわりと広がる『何か』を感じずにはいられなかった。
  『何だろう?この感じ......』
 そう自問して、あっと気づく。
 初めて、克也と颯樹の再会を目にしたときに感じた、何ともいえない焦燥感。二人の間にだけ流れる『何か』を感じてしまったあの時の感覚だと。
   
  「そんな穏やかな時間が続いて――......、色んな話をするうちに、気づいたら外はすっかり日が落ちてて――」
 克也の言葉に岬の心臓がよりいっそう大きく跳ねる。
  「帰ろうとする俺を颯樹は引き止めて――、『真実』を告げた。颯樹が俺を別荘に呼んだのは――、本当は......俺と談笑するためじゃなかった。――よく考えたら当たり前だよな。あんなことがあってから一年すら経ってなかったんだから......。―― 颯樹の後ろには――、本家の人間の策略があった。学校にも行かず自堕落に日々を過ごしていた俺を案じた大人たちは、やはり同じように過ごしていた颯樹と俺をくっつけようとしたんだ。そうすれば俺の気力も少しは戻るんじゃないかと、ね。水皇さんだけは反対したらしいけどね......。そんな大人たちの汚い策略に気づきながらも、自暴自棄になっていた颯樹はその策略に乗って――俺を呼び出したんだ」
  
  「それで、―― それでどうなったの?」
 思わず岬の口をついて出た、話の続きを求める言葉。
 克也が一瞬息を呑んだのが分かる。
   
 次の言葉をなかなか紡がない克也に痺れを切らし、岬は『予感』を口にする。
   
  「―― 泊まっ―― たの?」
   
 その言葉に、克也が弾かれたように岬を見た。
 その途端、岬には分かってしまった。それが事実なのだと。
   
  『......次の言葉が、出てこないよ』
 年頃の男女二人が一晩一緒にいて、どんなことが起こるかなんて――、分かりきってる。
 岬は、体の力が抜けていくのを感じた。
   
 ふらりと崩れそうになる岬の体を、克也は支えた。
   
  「岬、お願いだ、聞いてくれ」
 真剣に呼びかける克也の瞳が岬の目の前にある。
  「克也......」
 今、岬は自分がどんな表情をしているのか分からなかった。もしかしたら、泣きそうな顔をしていたのかもしれない。
  
   
  「俺は確かにその日、別荘に泊まって、颯樹と一晩を過ごした。でも――、颯樹とはその日だけで―― 全て『終わって』る。その後は何もない! 信じて欲しい、―― 今、俺が愛してるのは岬だけだ。その気持ちに一点の曇りもない!」
 真っ直ぐに見つめる克也の強い意思を宿した瞳。
 言われたことは素直に嬉しい。
 分かってる、今聞いた颯樹とのこと―― それは過去のこと。
 これ以上もないくらい、克也が自分を大切にしてくれていることは、今まで克也がしてくれたたくさんのことを思えば疑う余地はない。
   
  『克也を信じてる。でも――』
 岬はそれでも心のざわめきを抑えることはできなかった。
  『過去のことなのに、あたし、心が狭い――』
 過去とはいえ、颯樹と克也が一晩を過ごしたという事実が作った波紋は、岬の心に大きく広がって消えてはくれない。   
   
  「キス、したの?」
  「――......」
 少しの間の後、克也は『うん』と頷いた。
   
  「―― その、先、は?」
 消え入りそうな声になってしまった。
    
 克也の言葉が止まった。
   
  『やだ、本格的に泣きそう。聞くんじゃなかった......』
 岬が後悔しかけたとき、
   
  「――少しだけ。でも、最後までは――いってない!これだけは本当に!」
 真っ赤な顔をして克也が声を張り上げた。   
 言ってしまってから、ものすごく困ったようで恥ずかしそうな複雑な表情になっている。
   
  「ふふ」
 克也があまりにも素直で――、岬の口から思わず笑いが漏れた。つい先ほどまでぐるぐると心の中で渦巻いていたどす黒い感情が、薄れていくのを感じる。
   
  『ああ、いつもの克也、だ』
 岬は、今の克也の表情にホッとするものを感じていた。
 これまで、颯樹のことを話す時、岬にはまるで克也が知らない人になってしまったような感覚に陥って仕方がなかった。でも、今目の前にいる克也はそうじゃなくて――、岬の『知っている』いつもの克也で......。心からほっとしたのだ。
   
  「おい、岬!」
 少し怒ったような表情の克也におでこをつつかれる。
  「へへ」
 笑いが止まらない。
  「おまえっ、こんな恥ずかしいこと俺に言わせておいて、なんで笑うんだよ」
   
   
  ――『少し』だなんて、ね ――
   
 いくらでも誤魔化せるだろうに、正直に言ってしまうところが克也らしい。
 そんな克也が言うことだから『最後までいってない』という言葉も信じられる。
   
  「っ、ごめんごめん」
 岬はにやけながら謝った。   
  「克也は、嘘がつけないね」
   
 つかない、のではなく、つけない。
   
 憮然とした表情の克也の頬に岬は自分の唇を触れさせる。
   
  「そんな克也だから――、あたしは、好きなの」
 岬の告白に、克也がきょとんとして――さらに頬を赤らめる。
   
   
 涙が、岬の頬を伝って少しくすぐったい。
 嬉しいような、切ないような、言葉では表せない涙。
   
  「ありがとう。つらいこと、いっぱい話してくれて」
 克也の前で膝をつき、ぺこり、と頭を下げる。
   
  「俺の方こそ、聞いてくれてありがとう」
 そう言って、克也は岬をふわりと抱きしめた。
   
 温かな感覚に岬が顔を上げると、克也の限りなく優しい瞳とぶつかる。
 どちらともなく、微笑みあって――
   
 ―― 唇を重ねる。
   
 しばらくの後、唇が離れ――、岬はうっすらと目を開けた。
   
  「ひとつ、聞いてもいい?」
 岬は問うた。
 克也が頷くのをも待って、次の言葉を紡ぐ。   
  「学校に行こうとしなかった克也も、うちの学校に来るまでは春日高校にいたんでしょ?ってことは、一年遅れとはいえ、ちゃんと中学を卒業したんだよね? 途中でまた学校に行き始めたってことでしょ?なぜ気が変わったの?」
  「ああ......それは――。颯樹に、智也からの手紙を、渡してもらったんだ......」
  「...... 一晩過ごした日に?」
 少しだけ棘を含ませて岬が笑うと、克也は困ったような顔で肩をすくめる。
  「その日の別れ際に渡された智也からの手紙に――、 自分にもしものことがあったら、俺が長として立つことを心から望んでいると、書いてあった。―― 衝撃だったよ。智也はその手紙を『あのこと』がある前から書いていて、何かあったら俺に渡すよう、颯樹に託していたっていうんだから......。―― そんなのを知ったら、頑張るしかないよな......。自分の気持ちはさておき、智也に託された『長』という仕事だけは、きちんとこなすべきだと思った。それを水皇さんに言ったら、それなら『長』として学校にもちゃんと行けって言われたんだよ」
 そう言って、苦笑いする。
   
  「水皇さんらしい。よかったね、水皇さんがいてくれて」
 岬も微笑んだ。
 水皇が克也の人生にとって本当に大きな存在なのだと感じる。
 自分と克也も、これまで水皇からたくさんの恩を受けてきた。本当にあの人がいてくれてよかったと、心から思う。
  「ああ、そうだよな」
 克也も感慨深げに呟く。   
  「春日から、桜ヶ丘に転校するように言ってくれたのも水皇さんだった。――あの頃の俺は、学校生活を楽しもうなんて余裕はなかったし、そういうことを求めようともしなかった。そういうところが――、周りには危ういように見えたらしい。だから――、尚吾のいるこの高校に無理やり転校させたんだと後から聞いた。あの時はその意図しているところが理解できなかった。学校に行くのは、『長』として恥ずかしくない教養を身につけるため――、それだけを目的としていたから。だから転校することにものすごく抵抗があったし、転校しても、同じように過ごすだけだとばかり思ってた」
  「そしたら――、調子狂っちゃった? 隣の席の小うるさい女子に絡まれるし?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべる岬に、克也はふわりと微笑む。
   
  「本当に。―― なんて――」
 くすり、と克也はひとつ肩を揺らし、続ける。
  「俺が相当嫌なやつだったから、あの岬の態度は当然だったんだよ。でも、岬はそんな俺を見捨てなかった。どんなに最悪な態度をとっても、どんなに突き放しても、真っ直ぐに関わってきて――、気づいたら目が離せなくなってた......」
 そう言いながら、克也は岬の頬に触れる。   
  
  「あの時、水皇さんが無理やりにでも転校させてくれたから今の俺がいる。そして岬にも出会うことができた。―― 本当に、感謝してもし切れない......」
 克也は瞳を閉じる。
  「岬のいない人生なんて、もう考えられない。心から愛する者がいるということはこういうことなんだと、心の底から感じてる。今、俺はこれ以上もないくらい幸せなんだ」
 微笑み、岬の額に唇を寄せる。
   
 だが、そんな克也の表情が次の瞬間、一変する。
  「......だからこそ――、なおさら自分が許せない。岬を愛して、そして愛されて――......、愛する者を失う恐怖、苦しさが、あの頃想像していた以上に大きいことを知った。智也と颯樹も、俺たちのようにお互いをこれ以上もないほど必要としていたはずなんだ。それなのに二人を引き裂いたのは俺だ。例え颯樹が許しても、自分で自分が許せない――!」
 そう口にする克也は、再び苦しそうな表情をしていた。

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