異変(3)
部屋の明かりのスイッチを器用に左手でつけながら、克也は右手で岬の背中をふわりと自分の方へと引き寄せる。
ここ数日は会うことはあっても、忙しいことに加えて来訪者も多いことから、なかなかこういう雰囲気にはなれなかった。
ふわり、と克也の香りとぬくもりに包まれ、岬は急速に心が休まるのを感じた。
『あたし......思ったより動揺してたのかも......』
広い胸に体を預けるようにして目を閉じる。
克也も、同じ気持ちなのではないかと思うのは自分の思い上がりだろうか。
一族の会社が、そしてそれをまとめる水皇が窮地に立たされていることで、克也の心の中が穏やかなはずはない。けれど克也は傍で見ている限りではそんな心の動揺を周囲に感じさせることなく、長として自分のすべきことを冷静にこなしているようにも見えていた。
だが、本当は人一倍繊細な克也のこと。その本当の心のうちが岬も気になってはいた。だが、なかなか落ち着いて話をすることができず時間が経ってしまっていた。
「ごめん。少しだけ......このままで、いい?」
克也がその体勢のまま、岬の耳元で囁いた。その声が麻酔のように、岬の意識をぼうっとさせる。
「うん......」
克也の背中に手を回すと、自分の背中にも克也の温かいぬくもりを感じる。
どのくらいそうしていただろうか。
そっと自分の背中にあった手が離れた。
見上げると、克也も自分を見下ろしていて――、穏やかなまなざしが近づく気配に岬がまぶたを閉じると、唇に柔らかなぬくもりが落とされる。
数秒後に名残惜しそうに克也の唇が離れ、岬がゆるゆると瞳を目を開けると目の前には克也の少しはにかんだ微笑みがあった。
「大丈夫?」
岬の問いに、克也は一瞬きょとんとした。そんな克也の瞳をまっすぐに捉えながら岬は言葉を続けた。
「水皇さん、疲れてるみたいだもんね。心配だよね。でもあたしは克也も心配」
「俺?」
「うん。だって、克也はいつも平気な顔してても本当は心の中でいっぱい苦しんでることに自分でも気づかないような人だから......」
眉根を寄せる岬に、克也は微笑む。
「すごく効果的な精神安定剤がいつも手の届くところにあるから大丈夫。今も元気チャージできたし」
「?」
今度は岬の頭にハテナが浮かぶ番だった。目を点にする岬を見て、克也はおかしそうに肩を揺らした。
「そう―― ここに」
そう言って克也の手が岬の頬に触れ、続いてその親指だけがつっと動いてそっと唇へと滑る。
「あ......あたし?」
ようやく克也の言わんとしていることが理解でき、岬の心拍数は一気に上昇した。
「あー......。うん、そ、そっか......」
恥ずかしさに一瞬訳の分からない相槌をうつ岬に、克也が再び肩を揺らす。
『克也ってたまにこういうストレート爆弾をいきなり投下してくるから......困る』
岬は熱くなった頬を両手で押さえた。
「ただ、―― 確かに水皇さんのこと、心配はしてるけどね......」
しばらくの後、克也はぽつりと呟く。
「とはいえ...... ここまでの経緯を見れば単純に一人の人間が起こした衝撃的ではあっても『ありえなくはない』事件なんだ。だから今回失った信用も時間をかければ――、いや、水皇さんなら案外早く回復させることができると思う。ただ――、 これは俺の......思い過ごしかもしれないけど――」
克也の言葉がそこで一度途切れた。岬は克也の次の言葉を待つ。
「何だか、とても嫌な予感がするんだ」
「いやな予感?」
岬は問い返した。
「昨日、涼真さんが密かに佐竹さんに会ってきたそうだ」
「え、っ......」
通常なら、今の状態の佐竹に部外者が会うことはできない。だが、そんな常識さえも飛び越えてしまうこの一族の世界に岬はただただ驚く。警察すらも凌駕する一族の権力。それはこの国の裏で一族が大きく関わっているということの裏づけに他ならない。そんな権力をもっていてすら今回の事件が明るみに出ることを防げなかったのは、その事件が白昼堂々大勢の通行人の前で行われた犯行であったからだ。犯行の露呈を防ぐことがいいことか悪いことかは別として。
そんな岬の思いに気づいているのかいないのか、克也は話しを続ける。
「そうしたら、佐竹さんはなぜこんな事件を起こしたのか自分でも全く分からないと言っていたらしい」
「分からない?」
「そう。事件を起こした、その場面ははっきりと自分の感覚としてあるのに、なぜそんなことをしたのかという自分の記憶や感情がすっぽりと抜け落ちているというんだ」
「記憶と感情の欠落......。失礼だけど―― 薬物とか、そういうご病気の可能性は?」
「家族を含む周囲に聞いても特にそういう話は聞かなかった。何より昨日会った佐竹さんからは全くそんな様子は窺えなかったらしい。絶対にとはいえないけど、かなりの確率でその可能性は低いと思う」
「だとすると――」
もうひとつの可能性に岬もようやくたどり着く。
「人の心に、干渉する術......?」
自然と口を突いて出た岬の言葉に、克也が頷く。
克也がそういう種類の力を持っていることは岬も知っている。
奈津河でも、自分を監禁した中條幸一がそういう種類の力を持っていたのを知っている。その部下である吉沢鷹乃と雁乃も。そしてもちろん、すべての能力者の性質を把握できているわけではない以上、他にもそういう種類の術を持つ者もいるかもしれない。
だが――、
「幸一の事件を契機に不穏分子を一掃して以来、中條御嵩の奈津河での権力は格段に増したらしい。中央集権化が進んだ今、中條御嵩が自分の許可なしに動く雑魚を黙って見逃すとは思えない。だとすると、動くのは中條御嵩の息のかかった幹部クラスの者か......。でも、こちらの幹部直属の部下クラスの能力者である佐竹さんを術中に嵌めるほどの力を持つとすれば......」
厳しさを含んだ『長』のまなざしを湛えて語る克也が言葉を切る。ただ事ではない空気に岬も息を呑んだ。
「今――、こちらの知る限りでは幹部クラス以上でそんな能力を持つ人間は一人だ」
「―― それって、まさか」
岬は口元に無意識に手をやった。
冷やりとしたものが背中を伝うような不気味な感覚。
もし、それが真実とするならば――
岬にも思い当たる人は一人だ。
「御嵩さん......?」
岬の呟きを克也は否定しなかった。克也も同じ考えであることが伝わってくる。
「御嵩さんがわざとこちらにその存在を示してきた?それって......」
呆然と呟く岬に、克也が重ねるように言葉を紡ぐ。
「宣戦布告、かもしれない。いつでも俺たちに対して手を出せるところに自分はいると。あからさまに自分の存在を前面に出してくるとすれば―― それだけ【本気】ってことだ」
克也はそう言って空(くう)を睨んだ。
「もしこの考えが間違っていなかったとしても、中條御嵩の狙いがどこにあるかはまだ分からない。けれど――」
そう言って克也は岬の背へと再び腕を伸ばし、自分へと寄せる。
「最終的な中條御嵩の目的がどんなものにせよ、そのためには絶対に......お前の力がいるはずなんだ。だから―― もしも本気で闘いを挑んでくるとすれば、当然お前を手に入れようとしてくる」
克也の言うことに、底知れぬ恐怖を感じて岬はぞくりとした。
自分たちの幸せのために闘うことを心に決めてはいても、恐ろしさが消えるわけではない。
克也の腕の中にいるのに、体の芯が冷えていく感覚。
「中條御嵩がどんな手を使ってこようと――、岬は絶対にあちらには渡さない」
搾り出すように克也は言った。ぎゅう、と強い力で抱きしめられる。
「克也、大丈夫だよ。まだ、そうと決まったわけじゃないんでしょ?」
そう口にしながらも、岬はそれが克也にとって気休めにしかならないことは分かっていた。
けれど、克也の動揺が抱きしめられた腕から微かに伝わってきて、そう言わずにはいられなかった。