異変(4)

 次の日、朝食を済ませた岬は離れの自分の部屋へと戻ってきていた。
 水皇は先ほど早めに会社へと出かけて行き、克也は基樹と共にこれから訪れる来客のための準備に取り掛かっている。
 母屋には一族の者が頻繁に出入りするため、人の多い昼間のうちはなるべく離れから出ないようにしているのだ。
 というのも、いくら水皇や克也が一族全ての者に対して岬に手を出さないようにという命令を下していても、今まで岬を敵だと見ていた者の心は簡単に変わるはずはないだろうという涼真の考えからだ。
 今回の事件についても、昨日克也が語ったことと同じく、佐竹の人柄を知る者からはそれが奈津河の仕業ではないかと疑う者もちらほら現れているという。そこで水皇と克也が涼真と基樹を交えて話し合った結果、状況が不安定な今、岬はなるべく一族の前に出ない方がいいという結論に達したのだ。
   
 部屋から出られないなら勉強に精を出そうと参考書とノートを広げ、問題を解き始めるものの、なかなか進まない。
   
  「あーもー!こんな時に!受験生にとってはとっても大事な夏だっていうのに、これで志望校落ちたらどうしてくれる!」
 頭をかきむしりながら岬が叫んだその時に扉をノックする音がし、開けると利衛子が立っていた。
  「どうしたの?」
  「あ......、いえっ。たいしたことはないんです」
 ちょっと恥ずかしくなり、岬はごまかすように胸の前でひらひらと手を振る。
   
 その時――、おもむろに利衛子の携帯が鳴った。画面を確認した利衛子がくるりと携帯を裏返して岬にも画面を見せる。その画面には『利由尚吾』と出ていた。
 岬が確認したのを見ると、利衛子は携帯を戻し画面に表示された通話ボタンを押す。
   
  「はいはい。何?」
 利衛子が携帯を片手に話し出す。
  「え?今、下にいるの?え、岬ちゃん?もちろんいるけど――」
 そう言って利衛子は岬をちらりと見、『分かった』と返事をして画面の通話終了ボタンを押す。
  「尚吾、今下に来てるっていうからちょっと行ってくるね。あのノーテンキは岬ちゃんにも会いたいとか言ってたけど、勉強の最中だったみたいだから行かなくて大丈夫だよ」
 受験生の岬を気遣う利衛子に、岬はぶんぶんと首を横に振った。
  「いえ。この状況で机に向かってても全く集中できなかったんで、行きます!」
 岬の言葉に、一瞬ぽかんとした利衛子は数秒の後、笑い出す。
  「岬ちゃんってば......。気持ちは分かるけど、大丈夫なのー?」
  「分かりません。でも、もうしょうがないです。この事件が落ち着いたら考えます」
 我ながら、受験生にとってあるまじき楽観的過ぎる発言だと思うが、自分の気持ちがそうある以上はどうしようもないことだ。あとで後悔するかもしれないが、今の特殊な状況で何食わぬ顔をして自分だけ勉強なんてできない。
  『ま、もともと勉強したくない気持ちが根っこにあって、ある意味これはその言い訳っぽい気もしないでもないけどね』
 岬は歩きながら肩をすくめる。
 どれも自分の本音だ。
   
   
 下に降りると、離れの入り口に立つ尚吾が笑顔で片手を挙げた。
  「やっほー。あいつが忙しくて岬ちゃんが暇してると思って寄ってみたよー!」
  「先輩......」
 尚吾の顔を見るのもホッとする。しかもこのタイミング。尚吾の気遣いが感じられる。しかし尚吾はそれを前面に出さない。
  『ほんとに、できた人だよなあ。さすが静流さんの子って気がする』
岬はしみじみと感心した。
   
   
   ******   ******
   
      
 しばらくそこで話していると外に人の気配を感じ、気になったらしい尚吾が扉を開けた。岬も何気なくそちらに目をやると、夫婦と見られる四十代ぐらいの男女が何をするでもなく呆然と佇んでいるのが見えた。 
   
 「こんにちは」
 女性と目が合ったので岬はそう言って会釈する。
 すると、女性は怯えたようにそばの男性の陰へと隠れた。
   
  『え?』
 その反応に岬の頭はすぐには付いていけなかった。だが、男性が発した言葉によって、なぜ女性がこのような反応をしたのかが判明する。
   
  「妻は少し臆病でね。そちらの方に怯えてしまったようです」
  『そちら』と指差されたのは岬だ。
 女性の怯える表情と男性の軽蔑の目に、岬はその場に固まった。何か言おうにも頭の中が真っ白で何も出てこない。
 呆然と立ち尽くす岬の代わりに、尚吾が口を開く。
   
  「大橋さん、彼女は確かにかつて奈津河の一人として過ごした時期もあった。でも今の彼女は誰よりも長の心に寄り添っている。心はもう竜一族と同じなんですよ」
 尚吾は大橋という男性を見据えた。
 それに対し、大橋は少し押し黙ったが、すぐに尚吾からも目を逸らす。
  「どうだか。―― 長の才気と実力は認めるが、何せまだ若い。失礼ながら女性経験もそれほどおありのようには見えないし、騙されているんじゃないかと心配なんだ。尚吾、お前も含めて敵方の女にいいように転がされているのではないかとね」
 そう言いつつ、大橋は岬に対して鋭い視線をぶつけてくる。その息苦しさに岬は一瞬息を止める。
  
  「......それは長への不敬と取られても仕方のない発言だと思いますが?」
 苛立った気持ちを無理やり抑えたような表情で尚吾は問う。
  「―― むしろ敬愛するからこそのこの発言なんだよ。......お前にそう受け取られてしまうのは残念だ」
 少々皮肉めいた言い方に、尚吾が僅かに色めき立つ。
   
  「少々おしゃべりが過ぎたようだ。失礼」
 そう言って大橋は、守るように女性の肩に手を添えて足早に去ってゆく。
     
   
   ******   ******
   
   
  「あったまきた!大橋のやつ!」
 離れ一階にあるソファで尚吾が息巻いて頬杖をつく。
 さきほどから少しの時間が経った。
 克也はまだ基樹と共に、大橋と入れ替わりのように訪れた本日二組目の来客の相手をしており、ここには岬と利衛子、尚吾の三人だ。
   
  「こら尚吾、やめなさい。声が大きい」
 利衛子がたしなめる。
  「だってさあ。あいつ克也のこと敬愛してるとか口では言っておいて、絶対にあれは心の中で馬鹿にしてたね。あいつ、佐竹さんと仲が良かったから岬ちゃんのこと逆恨みしてんだよ」
   
 尚吾の言葉に岬はかぶりを振った。
  「いいんです。あたしのことはいいんです。それが―― あたしがやってしまったことの結果ですから......。でも......あの人、確かに克也のことよくは思っていない感じがしました......それが、なんか悔しい」
  「岬ちゃん......」
 気遣わしげに尚吾が名を呼んだ。
   
 『そう。あたしはいい。でも克也が悪く言われるようじゃ、ダメなんだ......』
   
 岬は、以前の尚吾の言葉を思い出していた。
   
  『竜一族にとって君が必要ないと判断されたとする。それでも克也は君を守ろうとするはず。―― 一族に必要ないという存在をかばおうとすれば、克也は長としてどうなってしまうのか......』
   
  岬はテーブルの上で両手を組み、指に力を入れる。
  「あたしのせいで―― 克也が悪く言われてしまう......」
 それが一番嫌な事だった。

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