異変(5)

岬の呟きに、利衛子が反応した。
  「そんなこと、岬ちゃんが気にする必要ないよ。」
  「でも......、さっきみたいに、あたしのためにもしも......克也の立場が悪くなってしまうのだとしたら―― あたし、どうしたらいいのか......」
 拳を握り締めて俯く岬に向け、背もたれにひじをかけ、やや後ろ向きでソファに腰掛けたた尚吾が静かに口を開く。
  「前に俺は、岬ちゃんに対して『一族に必要ないと判断された存在をかばおうとすれば、克也は長としてどうなってしまうのか』みたいな話をしたことがあったけど――、あの時だって岬ちゃんの『覚悟』のありようを聞いてただけで、決してあいつのそばにいることを諦めて欲しくて言ったわけじゃない。それに、今の岬ちゃんにはあの時とは比べ物にならないくらい、あいつの隣に立つ『覚悟』ができてるよね? それでも、あんな風に言われてしまうのは岬ちゃんのせいじゃない。長年いがみ合ってきた一族同士、相手の一族を簡単には良く思えないっていう自然な感情で、ある意味仕方がないことなんだ。岬ちゃんには何の落ち度もないんだから、俺も気にすることはないって思うよ」
 そう言って笑ったものの、尚吾は口元に手をやり、しばし考える仕草を見せる。  
  「だた―― 大橋さんだけならいいけど、他にもこんな偏った考えが伝染するのを防ぐために、何か策を打ったほうがいいかもしれない―― 」
   
 岬は慌てて正面から尚吾に向き直った。
 「先輩......お願いです。どうかこのことは克也にも水皇さんにも言わないでください。それじゃなくても二人は今回のことで頑張りすぎなぐらい頑張って頭を悩ませて―― その上あたしのことまでなんて......心労を増やしてしまうようなこと、耳に入れたくないんです」
  「そんなこと―― 克也に後から知られたらぶっ飛ばされるって」
 尚吾のひきつった笑顔に、岬は勢いよく首を横に振った。
   
  「そこをどうか......お願いします、先輩......!」   
 岬が尚吾に向かってぺこりと頭を下げた時――、
   
  「俺が、何?」
 突然その場に振ってきた声に、はっとして三人顔を見合わせる。
 声のしたほうに視線を移すと、離れの入り口に克也が立っていた。
   
 驚いてただ立ち尽くす岬に、克也は微笑みながら歩み寄る。
  「隠し事は、なし。この間約束したよな?」
   
何があったのかを語るのをためらう岬の横で、尚吾が口を開いた。   
  「大橋さんとその奥さん、岬ちゃんが信用できないって。ついでに克也、お前のこともな。表面では心配だの敬愛だの綺麗な言葉並べ立ててたけど、大橋さんにしてみればお前も俺も、女性経験の少ない青二才ってことらしいぜ?」
 肩をすくめる尚吾の言葉を、何かを考えながら真剣に聞く克也。
   
  「今日、大橋さんが俺に話していった内容も同じようなものだったんだ。頼りないというのは年齢的にそう見られても仕方がないとは思うけど、岬に関することだけは俺はきっぱりと否定した。でも、納得はしていない様子だった。まさか......それを離れにいる岬にまでぶつけにいくとは思わなかったけど」   
  「そもそも、そんなことだけのために離れの方に近づいてるってのが腑に落ちないけどな」
 尚吾がためいきまじりに言葉を吐き出す。
  「確かに......」
 克也も真剣な表情で何かを考えている様子だ。
  「本当にそのために離れに行ったのか......」
 ぼそりと克也が続ける。
  
  「調べる必要が、あるな」
 尚吾が神妙な表情で応えた。
   
  「そこはまた調べるとして――、何にせよ」
 克也は視線を岬へと移す。
  「岬、嫌な思いさせてごめんな。俺がうまく立ち回れていないばっかりに」
 克也の手の指がそっと岬の髪に触れる。
  「ううん、克也のせいじゃないよ。逆にあたしの方が克也に謝らなきゃ。あたしがそばにいるせいで、克也まで頼りないとか、経験が浅いとか言われて――」
  「女性経験が浅いとか、どうでもいいけど。だって別に女性経験が豊富なのが必ずしもいいとは限らないし。それだけを理由に頼りないとか言われても、俺自身は全く気にならないよ。岬がどんな子かなんて―― 人生経験豊富なオジサンたちよりよっぽど良く知ってる」
 悪戯盛りの子どものような挑戦的な表情で克也は言った。
  「克也――」
 目に、水分が集まるのを感じる。
   
  「だから、どんなことがあっても、俺の――」
 そこで少しだけ間を置き、小さく息を吸うと克也は続けた。
  「岬は、俺のそばにいて。絶対に、守るから」
 真剣なその瞳にまっすぐに見つめられて、『かなわない』と岬は思う。
 ここまで言われては今の自分には何も言い返せない。
 だから、全ての思いをひとつの言葉に集約し、口にする。
  「ありがとう」
 そう言って岬は、克也の胸に頭を預けた。 
 
   
   
   ******   ******
   
   
 その夜―― 岬は一人、克也の産みの母親である久遠澄香の仏壇に手を合わせていた。
   
  『これ以上、克也や水皇さんたちにとって悪いことが起こりませんように......。どうか、澄香さん、みんなを守ってください ――』
 心の中で唱え、閉じていた目を開くと、目の前に澄香の微笑みがあった。
 克也に面差しが似ているからだろうか、ホッとする。
   
 そのまま、澄香の遺影を眺めていると、背後でドアが閉まる音がし、岬はどきりとしてしまった。
 慌てて振り返ると、そこにいたのは水皇だった。
   
  「水皇さん?―― 全然予想してなかったから、かなりびっくりしましたよー」
 岬がおどけて言うと、水皇もくすりと笑う。
   
  「ごめんごめん。驚かせるつもりじゃなかった。ちょっと俺もここに用があって......、一応ちゃんとノックもしたんだけどね」
  「え?そうなんですか?ごめんなさい、あたしこそ、気づかなくて」
  「いいんだよ。あまりに岬ちゃんが真剣に何かを祈ってるみたいで、邪魔しないようにと思ってそっと近づいたのも悪かったんだよね」
 そう言って肩をすくめる。
   
 仏壇を見つめる水皇のまとう空気が、とても緩やかで自然な気がする。
   
  「水皇さんは―― よく、この部屋に来るんですか?」
 岬はふと疑問に思い、聞いた。
   
 少しの間があって、『うん』とゆっくり応えが返ってきた。
   
  「何かを報告したい時はもちろん、迷った時や悩んだ時はここにくるよ」
  「そう、なんですか......。水皇さんでもそんな時があるんですね」
  「長年生きてると色々あるもんだよ」
 そう言って笑う水皇だが、どこか憂いを秘めている気がした。
 仏壇を見つめていた水皇の目は優しくそして哀しそうでもあり......。前々長の久遠智皇と水皇、そして澄香にも様々な人生ドラマがあったのだろうと思わせられる。
    
 しばし沈黙が流れた。
    
  「岬ちゃん、今日は―― 一族の者が心無い言葉をかけてしまったようで、ごめんな」
 水皇の言葉に、岬は驚いた。
  「克也ってば、水皇さんには言わないって言ってたのに......」
 眉根を寄せた岬に、水皇は首を振る。
  「違うよ。あの子じゃなくて基樹に聞いたんだ」
  「―― 基樹さんに?」
  「そう。大人の情報網をなめちゃあいけないよ」
 そう言ってにやりと笑う。
  「す、すみません......」
 慌てて岬は謝る。
  「いやいや、そこは謝るとこじゃないよ」
 水皇は苦笑した。

   
  「今日は本当に、すみません。あたしがいるせいで克也が敵方の女にいいように洗脳されてるダメな長みたいに見られてしまったみたいで――」
  「ダメ長......」
 その言い方がツボにはまったようで、水皇は肩を震わせて笑う。
  「―― 変ですか?」
 あまりにも笑われるものだから、岬は少し不満げに水皇を見つめた。
  「いや、ごめんごめん。―― 克也は、そのことについて何て言ってた?」
  「気にしないでいいって......。自分も気にしていないから、あたしのことは自分が良く知ってるから―― そばにいていいって、言ってくてれます」
 そう言ってくれた時の克也を思い出して少し頬に熱が集まるのを感じつつ、岬は小声でそれを伝えた。
   
  「うん、あの子らしいね......」
 ふっ、と水皇の目が細められる。
  「それなら、それでいいんだよ。あの子がそれでも岬ちゃんをそばに置くことを選ぶのなら、僕は何も言うことはない。あの子を、信じているから。それに、前にも言ったと思うけど、あの子は岬ちゃんがそばにいてくれることで、より強くなれるんだと僕も思っているから」
 水皇の瞳には強い光が宿っていた。
   
  「あたし、また弱気になってましたね......。もっと気を強く持つって――、克也を支えるって、決めたのに――」
 しゅんと肩を落とす岬に向かい、水皇は再び口を開いた。
  「人間なんて、弱さと強さの間を行ったり来たりしながら進む生き物だからね。それが普通――」
 笑顔で話し始めた水皇の言葉の語尾が突然途切れた。
 その瞬間。
   
  「水皇さん?」
 水皇の身体が少し右に傾いだ。
 ―― と思うと、少し離れた壁へとよろめきながら歩き、もたれかかった。
 岬は驚き、駆け寄る。
   
  「どうしたんですか!?気分でも......」
 慌てる岬に、
  「いや、―― 少し......目眩がしただけ......。こうしていれば、すぐ、治まるから」
 瞳を閉じ、片手で目頭を押さえて何かに耐えるような表情の水皇。その顔色は青白く、今にも崩れてしまいそうに見えた。
   
  「水皇さん、自分のお部屋で休んだ方がいいですよ!事件のことで会社にいる時間も増えてるし、相当疲れてるんですから」
 岬が水皇の体を支えながら言うと、水皇は『大丈夫』とでも言うようにそっと手で制し、岬から離れる。
   
  「いや、そっちは大丈夫だ。それよりむしろ、問題なのは――」
   
 そう言いかけて水皇は、はっとしたように口をつぐむ。
 やがて目眩が治まったのか表情が和らぎ、水皇は目を開いた。
   
  「水皇、さん?」
 説明を求めるように名を呼ぶ岬に、
  「いや......。何でもないよ。―― 確かにちょっと疲れてるみたいだ。一度手を合わせたら、もう休むことにするよ」
 そう言って微笑んだ。
 言葉は優しいけれど、それ以上は何も聞かせないという強い意思が伝わってきて、岬も何も言えなくなった。

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