異変(6)
次の日、朝食の席で会った水皇は、昨夜のことがまるでなかったことのように元気に見えた。
大丈夫かと問うために口を開きかけたその時、水皇の瞳にそれを制するような鋭い光を見た気がして、岬は息を呑む。
「おはよう、岬さん」
そう言う水皇の口調は穏やかだ。だが、先ほどの一瞬の威圧感はその後も岬の心に残り、その後も水皇を気遣う言葉をかけることをためらわせる。
そんな時、傍らの涼真が口を開いた。
「水皇様、ここのところちょっと睡眠時間が少ない気がしますが、体調は大丈夫ですか?」
言いながら、ちらりと何かを訴えるように眼だけで水皇を見る。
「大丈夫大丈夫!このところ、例の事件のことで俺にしちゃ珍しく老体に鞭打って頑張っちゃってるからね。まあ、それも今だけ!そのうち世間も落ち着いて、またのんびり生活に戻れるから」
飄々と言い、手をひらひらと振る。
「水皇さんがのんびり生活なんて想像がつきません」
利衛子が口をはさむと、水皇は笑って肩をすくめる。
「そう?今はともかく、それまではあんなに毎日ダラダラ過ごしてたっていうのに、そんなこと言われるなんて嬉しいなあ」
「水皇さんの毎日のどこをどう見たら『ダラダラ』になるんですかっ?そんなんじゃ、グータラ大学生のあたしの生活はなんて表現すればいいんですかっ」
―― そんな会話をする二人の様子は、岬にはどこかフィルターのかかった世界のように見えていた。
「岬、どうかした?」
呆然と二人のやり取りを眺める岬の顔を、克也が覗き込む。
「あ......、ううん」
岬はなんとなく微笑んだ。
そして思わず、昨日のことを含め水皇を心配する言葉を口にしかけ――、けれど克也を前にして口にすることはためらわれ、やめた。
これ以上克也に心配をかけたくないという思いが岬の心にブレーキをかけていた。克也のことを大切に思う水皇だって、きっと同じことを思うはずだ。だとすればさっきの水皇の鋭い視線も、克也に心配をかけないために口にするな、という意味なのだろう。
そんな岬に克也は眉をひそめる。
「何かあったような顔してる。また隠し事?」
「そうじゃないよ。確かに涼真さんが言うように、水皇さんは根の詰めすぎだって思うから、ちょっと心配になっちゃったの」
岬がまた何かを隠しているのではないかと少しすねたような克也の物言いに対して、岬は当たり障りのない答えを返した。
『嘘はついてないもの。水皇さんのことが心配なのは本当だし......』
心の中でそう言い訳する。
ただ、こうして昨日のことだけには蓋をしたものの心の一部を見せたことで、幸いにも克也は納得してくれたようだった。
わずかな罪悪感を抱きながらも、岬はどこかホッとしていた。
朝の柔らかな日差しの中、美味しい食事の香りに包まれながら時に微笑みあい、他愛のない話を楽しむ――。
こんな穏やかな時間を楽しんでいられる状況ではないことは承知の上だけれど、それでも、少しでも長くこんな時間が続けばいいと岬は願わずにはいられない。
「それじゃ、そろそろ行こうか」
皆の食事が半分ぐらい進んだ頃、水皇が涼真に声をかけた。
涼真は水皇の秘書的な役割のため、朝食は先にとることも多々あるらしく、今日もコーヒーを飲んでいるだけだった。だからいつでも動ける状況ではあったようだが、今水皇がそう口にしたことは涼真にしてみても意外だったようで、少々目を見張るのが岬にも分かった。
「えっ、もう!?全然食べてないじゃないですか!こんな時だからこそ栄養とらなきゃ、水皇さん」
皆の心の声を代弁するように利衛子が声を張り上げる。
だが、
「年を取ると自然と食が細くなるものなんだよー」
そう笑いながら、水皇は立ち上がる。
「若い皆様方はごゆっくり......」
涼真がにこりと笑いながら礼をし、水皇の後を追う。
「そーそー!ゆっくりなー」
水皇も肩越しに半ば振り返ってそう言いながら部屋を後にしていく。
残された三人は思わず顔を見合わせた。
「なんだか......ホント心配だわね」
頬杖をつきながら利衛子がため息交じりに呟く。
「......ですね......」
岬もうなずいた。
克也も、眉間にしわを寄せ、難しい顔で口元に手を当てて何かを考えている。
「......克也?」
克也があまりにも思いつめた様子だったから、岬は思わずその瞳を覗き込んだ。
少しの間の後、ああ、と岬の言葉に対してあいまいな返事を返す。
「確かに―― 変だ」
独白のように、克也が小さく呟く。
「今日、水皇さんが帰ってきたら、聞いてみる」
「何を?」
岬が聞くより早く利衛子が聞いた。
わずかに、克也の口元が動くが、ためらうようにそれが止まり――、引き結ばれる。
しばらくの間があった。
やがて、克也は意を決したように話し始める。
「これは――もしかすると俺の思い過ごしかもしれない。だから、もしかすると、杞憂に終わることかもしれない。だけど――どうしても気になるんだ」
「だから何よ?」
利衛子が少し苛立ったように答えを急かす。
ごめん、と克也は謝り、続ける。
「少し前から、何となく感じてた。―― この屋敷の、空気の違和感」