未来の青写真(前)

   『あたしねえー、大きくなったらおよめさんになるの!』
 無邪気にそう胸を張っていた幼稚園生の頃がう懐かしくうらめしい。

   
 放課後の人もまばらになった教室で、『進路希望表』と書かれたA6判のプリントを眺めながら、岬はため息をついた。

 もともと、これといった将来の夢もない。
 バスケは好きだが、だからといってそれで将来やっていきたいとは思えなかった。
   

  『お嫁さん......か』
 ぽんと克也の顔が浮かんできて、岬は一人、密かに赤くなった。
 確かに、いずれは、そうなりたい。それもひとつの夢といえるかもしれなかった。
   

  『でも――』
 岬はそこで自分の思考の流れを止める。

  『克也もまだやりたいこともあるだろうし、まあ、お嫁さんっていうのはさすがにまだ先の話として......、まず、その前に...』

 特にやりたいこともなかったし、高卒で働いている姉の港を見習おうと先日相談してみたら、「とんでもない!」と父と港に思い切り反対されてしまった。
 高卒で働いていることで、苦労することもあるという。
 何より、「あの時こうしていれば」という後悔を岬にしてほしくないのだという。
 港が働き始めた頃は家計も苦しく、働くしかなかったのだが、あの頃よりも父の収入は上がっているし、姉の収入もある。できるのにしないというのはもったいない。後で後悔しないようにやれることはやっておいた方がいいのだと姉に力説された。
   
 じゃあ、姉は後悔しているのかと訊いたら、港は思い切り笑った。
  『あたしはあたし。この選択をしたこと、あたしは間違ってるとは思ってない。もちろん正直やりたかったこともあったし、今でもやろうと思えばできる。でもそれは今やろうとすれば、もしそのときにやっているより難しいし大変なこと。だから、許される環境があるのなら、早いうちに取り組んでいた方がいいの』

   
 姉の気持ちはうれしかったが、明確にやりたいことがあるわけではない岬にとって、その心遣いが申し訳ないものに思えてしょうがなかった。   
 だが、家族の強い願いならば、岬としてもなるべく応えたかった。
   
 それに、確かに後で後悔というのは岬もしたくはなかった。
  『だって、だって、もしも――、もしもよ?例えば、高卒では克也と結婚させられない!なんて反対されてしまったりなんかしたら――』
 岬は考えてしまって青くなった。
 頭の良い克也とのつりあいということを考えたら、全くありえない話ではないかもしれない。
   
  『どうせなら、克也と同じ大学に行きたいな......』
 漠然と、考える。   
   
 だが、成績が学年トップの克也。きっとかなり高いレベルの大学に行くのだろう。
 自分はというと学力は並みの並。中くらいのものだ。
  『ううっ、こんなことならもう少しまともに勉強しとくんだったー!』
 三年生の春の今になって悔いても、半分以上過ぎてしまった高校生活はやり直せない。
  『今更勉強しても、克也のレベルまではさすがに無理だよなあ。』
 ため息しか出ない。

   

  「何、紙を見つめて百面相してんの?」
 急に手にしていた進路希望の紙をひょいとつまみ取られる。
  「え?」
 驚いて顔を上げると、短髪の男が笑みを浮かべながら立っていた。

  「あ、永瀬?」
 永瀬――永瀬 優(ながせ すぐる)は一年の時に同じクラスで仲の良かった男子で、お調子者だが、素直で明るい優は先生にも愛されるキャラだ。
 自分と、圭美、晶子、そして優。
 四人は何かというと、つるんでいた。
 ただ、二年になってクラスが離れたことと、去年圭美や自分の身に起こったことなどで、しばらくは挨拶程度の付き合いになっていた。
 三年になって一緒のクラスになったものの、特に親しくすることもなく、今に至っていた。
   
  「どうした?悩み事?」
  「いや、悩みってほどのことじゃないんだけどね。進路決めるのは難しいね。」
 岬は苦笑いをする。
 その様子を見ながら、永瀬は「確かにね」と笑う。
   
  「でも、そうやって悩めるってことも幸せなんじゃない?――悩みたくたってできないやつだっているんだし」
 永瀬の言葉に岬ははっと顔を上げた。
   
  「圭美のやつ、いつまで寝てるつもりなのかねー」
 どこか寂しげに永瀬はつぶやく。その一言で、『悩みたくてもできないやつ』が圭美のことを指すのだと岬は確信する。
      
   
 圭美はいまだ目覚めない。
   
 圭美を追い詰めたのは、直接的には憎き巽志朗だ。
 けれど、今の岬にはもうひとつの真実もはっきりと認識していた。
   
 自分もまた、圭美を追い詰めた一人だということ。
   
 いつか克也が言ってくれたように、結果は変わらなかったかもしれない。
 けれど、もっと違う方法で、圭美に知らせることはできたはずだった。
 それなのに、自分のことばかり考えて機を逃した。そのことが、圭美をさらに深く傷つけた。
   
 あの時こうしていれば、ということを考えるのは無意味なことだと分かってはいても、どうしても考えてしまう。
   
   
  「思えばあの頃は平和だったよな。将来のことなんてまだまだなんも考えてなくて。」
  「まあね」

  「圭美がいて、岬がいて晶子ちゃんがいて――、」
  「やっぱり圭美の名前が一番最初に出てくるんだね。」
 前から、永瀬は何かと圭美を構っていたように思う。
   
  「だってあいつ目立つんだもん。」
 永瀬は笑う。
 前だったら、ここで複雑な気持ちになっただろうなあと思う。    
   
  『あたし、一年の時は永瀬のこと好きだったんだよね』
 今思うと、恋と呼ぶのもおこがましいような、幼い想いだった。けれど、友達以上の感情を抱いていたのは確かだった。誰にも言っていなかったけれど。
   
  『でも、永瀬が好きなのは、圭美だったんだよね......』
 その頃のことを思い出し、たった二年前かそこらのことなのに随分昔のことのように感じた。
 あの頃は、今の状況を誰が想像しただろう。 
  
 あの時、永瀬に抱いていた、心の表面ではじけるような、くすぐったいような淡い恋心とは違う、――それよりもっと心の奥底から湧き上がるような、時に激しく、そして時に穏やかに深く想う感情が、今、自分の中には存在する。
 克也に出会って、自分の生き方は随分と変わった。激流の中で必死で生きている気がする。ともすれば命を見失いそうになる中で、必死で『生』にしがみついている。
 思い返せば、一年生の頃はなんと穏やかな流れの中にいたことか。
      
 けれど――、いくらつらいことが沢山あっても、克也に会う前の自分に戻りたいとは思わない。
 克也との出会いも、一族と関わったことも、自分の中の必然。
   
 一族との関わりの中で、失ったものや、犯してしまった罪がある。
 どんなに嘆いても、自分を責めても、起こってしまったことは変えられない。
 自分の罪も消えない。
   
   
 岬を見つめ続けていた永瀬がおもむろに口を開いた。   
  「あのさ、岬。お前、今、幸せか?」
  「もちろん、幸せだよ」
 永瀬の問いに、満面の笑みで答える。それは自信を持って言える。
 どんなことがあっても、克也のそばにいられることは何よりの幸せ。
   
  「ちぇ、これ以上はないって顔しやがって。ヒトの気も知らねーで......」
 永瀬が口を尖らせる。
  「え?何?」
 岬が顔を覗き込むと、永瀬はうつむいて大きく息を吐いた。
 しばらくして、顔を上げると、   
  「なんでもねーよっ」
 そう言ってフイと横を向く。
  「何それー」
 笑う岬を横目でちらりと見ると、永瀬は肩をすくめる。
   
  「まあ、いいや、それならさ。――二年の時、お前色々あったみたいだからさ。これでも一応、心配してたんだよ」
 永瀬の言葉に、岬は少し驚く。
 自分は思い出しもしなかったことに、申し訳ない気持ちになった。
   
  「――ごめんね。でも、もう大丈夫だよ。それより、ごめんね、圭美のこと――」
 謝る岬に、永瀬はきょとんとした。  
  「は?なんでお前が謝るんだよ?」
   
 永瀬としては訳が分からないだろう。
 けれど、岬は謝らずにはいられなかった。
 永瀬が大事にしていた圭美を、あんなにしてしまったこと。
   
  「そうだよね、なんでだろうね......」
 きりりと痛む心を隠すように、岬は笑顔を作った。
      
 その時――、  
  「岬」
 永瀬が急に改まって名前を呼んだ。
   
  「俺が、ちょっと心配になるのは、そんな表情をする時なんだよ......!」
 あまりの真剣な表情――。   
 岬がそれに対して反応しかけた時だった。
   
  「みーさーきっ!」
 ちょっと離れたところから、晶子の声がした。
   
  振り向くと晶子がいた。――、そしてその後ろにいたのは克也だった。

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