形代(かたしろ)のぬくもり
彼が承諾するはずはないと、思ってた。
彼は、智也と違って、上に形容詞がつくほど、真面目で純粋だから。
一族の汚いことからは隔離され、育ての親に大切に育てられた『幸せな』双子の片割れ。そんな彼に対していつも智也が抱えていた、愛情と憎悪の入り混じる複雑な思いを、私は良く知っている。
けれど――、いいえ――だからこそ、私は言ってしまったのかもしれない。
「ねえ、克也......、私を、抱いて......」
****** ******
「颯樹......」
克也は一度目を瞠った。
「克也は、智也の片割れ。澄香様の中で、全てひとつのものを二つに分けたのでしょう?だったら――私に――もう一度、智也を感じさせて。克也を通して、どうか、私に――」
我ながら、馬鹿なことを言っている。
もう、智也はどこにも『いない』のに。
『ああ、私はとっくに、おかしくなっているんだ』
頭のどこかでまるで他人事のように理解する。
もう操を立てるべき智也はいない。あの力強い腕に抱かれることは二度とないのだ。智也が恋しくて恋しくて、心も体もどうにかなりそうで――。
そんな私の元に最近頻繁に現れるようになった長老たちを筆頭とする本家の汚い大人たち。智也がいなくなった途端に手のひらを返し克也に長としての役割を求め、私たちを駒のようにしか扱わない。あの人たちは『一族』さえ安泰ならそれでいいのだ。
―― そんなずるい大人たちは、ここのところ毎日煩いほどに私が克也を誘惑するようにせっついてくる。
『ありえない』
と思った。智也が命を落とすきっかけを作ったのは克也だ。そんな相手に自分の身を差し出せない。
――いや、本当は分かってる。
確かに克也の力が放出されたこともひとつの要因ではあるけれど――。
そんなことより、最初に内村の罠にはまった私が、本当は一番の原因なのだと――。自分こそが、智也を死に追いやったのだと ――。
それでも、―― だからこそ余計に、どうにもならないこの思い。
このもどかしさを埋める術を探していた私は、毎日本家の者の話を聞いているうちにある可能性に気づいたのだ。
克也は、智也の片割れ。
元々はひとつのものだったはずだ。それなら――、体だけでも克也と繋がることができれば、私は再び智也に会えるのだろうか――?
私は、克也のシャツの襟に手をかける。
そして、そのまま指を首もとのボタンへと滑らせ、ゆっくりと胸元をはだけさせていく。中に何も着ていなかったせいで、その胸板が顕になる。
そこに、私は智也を見た気がして、思わず鎖骨の辺りに唇を這わせると、少しだけ、克也が身じろぎした。
胸の辺りまで伸ばした自分の髪がさらりと肩から零れ落ちる。
智也のために伸ばした髪――。
「――逃げないの?」
唇を離し、私は克也を見上げた。
途端に、なんともいえない表情の克也と視線がぶつかる。
戸惑いと、照れと、そして悲しみ、絶望――。
『同じだ』と思う。
私も、克也も同じ悲しみと絶望を宿した顔をしている。
この悲しみを――片翼をもがれたような深い絶望を理解できるのは、この世で私と克也だけ。
「いい。――それで、颯樹が、一時でも救われるなら」
ぼそりと、克也が言った。
智也と同じその双眸が目の前にある。
ひどく泣きたくなった。
「智也、智也――!」
私は、涙が零れ落ちないように瞳をぎゅっと閉じると、懸命に今ここにいない人を呼ぶ。
今はもう、どこにもいない、その人の存在を探すように。
少しだけ後ろに引いた克也の顔を、逃さぬように両手で捕らえると、その唇に自分の唇を重ねた。
途端に感じた違和感を考えないようにして、その唇を舌で押し開けて、中の歯茎に舌を這わせた。
「――っ」
克也は、私の肩を押して私から逃れようとした。
私と智也にとっては、もうずいぶん前から当たり前のようにしてきた睦事だが、克也にとってこんな経験は初めてのはずで、驚くのも無理はない。
でも、智也と二つに分けたその顔でそうされることが、何だか智也に拒否されたようで寂しくて――、克也の指に自分の指を絡ませ、彼を繋ぎ止める。
「お願い、逃げないで......」
唇を離し、私は上目遣いで懇願した。
途端に、すまなそうな表情で、克也は押し黙った。
彼が、『逃げられない』のを分かっていて、そう願った。
私はずるい。
私は、今度は自分の着ていたTシャツをためらいもなくなく脱ぎ捨てた。
克也は目を瞠り、――すぐに真っ赤になって目を逸らす。
こんな時に、智也の言葉が脳裏に甦る。
『綺麗だ、颯樹』
初めて、智也の前でこうしたとき、智也は間髪をいれずにこう言った。
でも、今はそんな言葉は聞けない。聞けるわけがない。
目の前にいるのは克也。
それは頭では分かっていた。けれど、今はそれを認めたくなかった。
シャツに続いて、ブラジャーのホックを外す。留める物がなくなったそれは、重力のまま、ぱさりと床に落ちた。
固まっている克也の体に手を伸ばす。
先ほどのまま、羽織っただけの状態の克也のシャツの襟元から手を差し入れ、肩に触れる、そしてそのままそのシャツを後ろへと押しやる。顕になった克也の肩に口づけをしたまま、肘のところで中途半端に留まっているシャツを一気に床へと落とす。
私も、克也も、上半身は何もつけていない状態になり、私はそのまま、克也の背中へと腕をまわした。
ぴたりと上半身を付けたまま、自分の指を克也の背中からゆっくりと首へと滑らせ、その首に腕を回すと、私は再び、克也の唇を吸った。
しばらく舌を絡ませた後、離した唇からは、お互いの熱く甘い吐息がこぼれた。
「たつ、き......」
次第に、克也の息が荒くなる――
彼も自分と同じ十四歳。年頃の男子だ。されるがままの状態だったのが、この刺激的な状況のせいで本能的な衝動が首をもたげ始めたのが、私にも分かった。
そのまま、おずおずと克也の指が私の背中に触れた――その途端――
――ぞくり――
本当に急に背筋が凍るような気がした。
―― 『コレ』ハ トモヤ ジャナイ! ――
私の身体と心の全てがそう叫んでいた。
「......い、いやああ!!」
瞬間、私は克也を突き飛ばしていた。
女の私より、力としては克也の方が強いはずだが、不意打ちをくらってバランスを崩し、克也は傍にあったベッドへと背中から倒れこんだ。
急に自分のしたことが恐ろしくなり、私は先ほど脱ぎ捨てたブラジャーとTシャツを床からかき集め、胸元を隠す。
いつしか私の瞳からは、止め処もなく涙が流れていた。
「う、っ......うう......」
恥ずかしさと、後悔と悲しさとが入り混じり、頭の中がめちゃくちゃだった。
克也がゆっくりと立ち上がり――、近くにあったシーツを私の肩にそっとかける。その時に克也の指が私の肩にわずかに当たり――、思わずびくりと震えてしまう。
「ごめん」
克也が謝った。
『――なんで謝るの』怒りにも似た感情が湧き出る。
――誘ったのは、私の方。
――純粋な克也を穢そうとしたのは私なのに。
ああ、そんなところまで、克也は克也だ。
私と智也がどんな思いを抱えていたのか、知らずに、純粋なまま生きてきた、克也。
愛すべき、憎むべき、特別な存在。
「ごめんなさい――!私こそ、自分から、言っておきながら。でも、やっぱり、ダメ。――智也じゃなきゃ、ダメなんだ。どうしても、違うの。胸も、腕も、指も、唇も――、みんな、違う......!」
まくしたてる私に克也がさみしそうに呟く。
「分かってる。俺は、智也には、なれない。俺で代わりになるならと思った。でも――なれないんだ。なれるははずもなかった。――ごめん、俺が生き残って。俺なんかが――」
辛そうに瞳を閉じる。
瞬間、目の前のこの人に対して、謝罪の気持ちだけが大きくなった。
智也がいなくなったばかりの頃、怒りをぶつけたこともあった。なぜ、智也が死んであなたが生きているのと。そのとき、何も言わずに罵倒を受け入れた克也。
あれからわずかに時は経ったが、きっと彼はずっと苦しんできたに違いない。そしておそらくこれからも苦しみ続ける。
今の私は、この人を利用しようとしただけ。智也のいない苦しさを悲しみを、この人を使って埋めようとしただけ。そして、渦巻く負の感情を、この人を穢すことで治めようとしたのかもしれない。
この純粋な人が、逆らえないのをいいことに。
このままでは、彼は一生私に対して頭を下げながら、そして私は心のどこかで彼を罵倒して利用しようとしながら、生きていってしまうだろう。
この人とわたしでは、傷をなめあうことはできても、そこから何も生まれないのだ。
多分、このままだと共倒れになる。
この人と私が共にいることは、智也に操を立ててのことだけじゃなく、克也に対しても良くないことだ。
他ならぬ、智也の双子の弟。もっと、幸せになるべきなのだ。
「私たち、このままではお互いにダメになる。あなたは、私から逃げて。私の家――村瀬の家の者たちと距離を置いて。あなたは、私への贖罪だけで生きていくにはもったいなさすぎる。この先、私が智也に対して想うように、あなただけを見てくれる女(ひと)がきっと現れる。永遠に、あなただけを愛してくれる人が――。その人のために、あなたは逃げて」
「俺なんかには、そんな幸せは望めない。智也の、そして颯樹の幸せを奪った俺には、そんな幸せを受ける資格はない」
克也は首を振った。
「そんなこと、言わないで......。智也もきっと、あなたに幸せになってほしいはずなの」
まるで親から見捨てられた雛のように、シャツを羽織ったままでベッドに座り込む克也を、私はシーツごと抱きしめる。
今度は、母親のような気持ちで。
その後は、二人とも何も言えなかった。
ただ寄り添って、朝を迎えたのだ――。
****** ******
あれからもう四年以上も経つ。
外の雀たちがいっせいに飛び立つ音に、私は手元にある本から、窓の外へと視線を移した。
首にかけたロケットペンダントがしゃらりと音を立てる。
ロケットを開けて中を見る。
もう何年、こうして愛しい者を見つめてきたのか。
「智也」
口に出してみる。
あなたへの想いは色あせることはないけれど、ずいぶん穏やかに思い出せるようになった。
そして、智也を想う時――いつも、智也の片割れのことを思い出す。
成人までは、その片割れが長であることを隠すため、一族の一部の者にしかその近況は伝えられない。
当然、あの後、一族の中心から一歩引いた私にも多くの情報は入ってこない。
少ない情報によると、彼は『宝刀の力の主』を手に入れたという。
その宝刀の力の主である少女とは恋人同士だとか。
『その子は、ちゃんとあなたを愛してくれる人なの? あなたの孤独をちゃんと癒せる存在なの?』
少し、心配になる。
純粋すぎる克也。長という責務を全うするために無理をしているのではないかとつい心配になる。
宝刀の力の主とのことも、一族のために無理をしているのではないかと。
それに――、
『敵の女に良いように騙されているとかではないといいのだけれど』
「颯樹」
幼い頃から自分を慕ってくれている、家のお手伝いさんの娘である一つ年下の美羽が遠慮がちに声をかけた。
本の間にしおりを挟み、身体ごと振り返る。
「どうしたの?」
「長が――克也様が、水皇様のお屋敷に近々戻られるらしいの。」
それを聞いたとき、自分の耳が信じられなかった。
「もう!?成人まで、克也が長であることは隠すのではなかったの!?」
「どうやら、正体を中條御嵩に見破られてしまったみたい。それで、仕方なく――」
敵の長に正体を見破られた?
『それは、宝刀の力の主なんかと関わったせいではないの?』
そう考えると心がざわつく。
雛を守る母鳥のような気持ちが、私に湧いてくるのを感じた。
シャツを羽織っただけの彼を、シーツごと抱きしめたあの時のように。
「近々、克也様の継承式が行われるって。颯樹は、出席――どうする?」
「行くわ。この目で、彼が幸せかどうか確かめなくちゃ。智也の代わりに」
もう克也からは離れようと心に決めていたから、彼の近くに行くことに迷いがなかったわけではない。
けれど、継承式で遠くから確かめるだけなら大丈夫だろうと思う。
幸せならば、それでいい。
けれどもし、そうではないと分かったなら――智也の代わりに、克也の幸せを守るのは私しかいない。
颯樹は、再び空を見上げた。