子どもの頃、アニメで初めて見て以来ハマってしまった作品。
しかし、物語の結末に納得がいかず、読むたびにもやもやしてしまうこの作品。
その作品の、原作者による『さいごのお話』が出ていることは以前から知りつつも読んでいませんでした。
ですが、ここにきてちょっとしたきっかけで読むことにしました。
購入するまではちょっと......ということで、図書館で借りました(だって高いんだもの)
小説キャンディ・キャンディ FINALSTORY (上)
小説キャンディ・キャンディ FINALSTORY (下)
【↓ 注意:以下、ネタバレ含みます ↓】
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私はテリィファンですが......。
この本は原作者の、テリィファンに対してのサービス本ですか!?って思ってしまう(笑)
このFinalStory以前のストーリーでは、結局キャンディはアルバートさんと一緒になるのかな、という終わり方でした。
でも、この本を読むとはっきりいって、揺れます(笑)
色々大人になると分かってきた大人の事情もあり、子どもの時に「なんで!?」と疑問に思ったことの多くは今になれば「まあ、しょうがないよね」と思えるようになりました。(それが不本意なことであっても)
アルバートさんの素敵さも今なら分かります。
けれど、頭での理解とは別に、心情的なところはどうしても納得したくない、という部分があるのですよね。
それがテリィとスザナのこと。
どう大目に見ても、二人が幸せになるというのが信じられなかった。
だからこの本を読んで、テリィとスザナが婚約までして一緒に住みながら、結婚してはいなかったということに嬉しさを感じてしまいました(苦笑)
結婚という形をとっていなかったことは、テリィファンの私にとっては、救われた気がします。
正式にではなかったということに、キャンディへの二人の(?)心遣い、もしくは二人の気持ちの様相(そこまでは進めない二人の気持ち)が見えるようだなと思うのです。
そして、それだけではなく、スザナが闘病の末、早くに亡くなっていたということもびっくり。
何の病気なのかは分かりませんが、テリィファンとしては......「テリィを開放してくれてありがとう」と言いたくなってしまいます。
『あのひと』はテリィではないにしても、テリィがスザナというお荷物を一生背負って生きたわけではないと分かっただけでなんか救われる気がします。
(こんな言い方はひどいんですけどね。まあ、実在の人物に対してではないので許してください。汗)
キャンディはテリィとの別れを決意した時を回想して
『スザナを置いて幸せになど決してなれない』
と言っています。おそらくテリィも同じ気持ちだったと思います。
テリィはキャンディへの想いを完全に断ち切ったわけではないにしろ、スザナが生きているうちはスザナに精一杯の愛情を注いだと思うんです。十分スザナに愛情を注ぎ、スザナもその愛情に包まれながらこの世を去ったことでしょう。
だとしたら、一生懸命愛情を注いだテリィは、もう十分頑張ったと思うのです。償ったと思うのです。
テリィを開放してあげられるのは、スザナだけ。
ただ、スザナが、自分の命が尽きることでしかテリィを開放できなかったことはとても残念です。
実は、私の好きなキャンディキャンディの二次小説があるのですが、その中に出てくるスザナは、自分の意思でテリィを開放してあげるのです。原作のスザナは生理的に受け付けない・大嫌いな私ですが、その小説の中のスザナは嫌いではなく、むしろ好意さえ持ちます。色々な想いを乗り越え、彼女自身も素敵な女性として成長しています。
本当は、原作でもそういう形をとってほしかった気がしますが、まあ、そうするとやはり長い物語が必要になるでしょうからね(苦笑)
さて、この小説の中にひとつだけ、テリィからの手紙があります。
『あれから一年たった』という記述がありますが『あれ』が何かは書かれていません。でも、スザナの死亡記事の次のページにあるということと、テリィがこんな手紙をスザナの存命中に書くとは思えないことから、おそらく、スザナの死から1年半たったあとだと思うんですが。
その中に、
『ぼくは何も変わっていない。』
という一文があります。
キャンディへの想いがそこに集約されています。
テリィはずっとキャンディを想い続けていたことが分かります。
対するキャンディはというと......、三十代になったキャンディの独白にさえ、今でもテリィへの(苦しいほどの)想いがあふれています。
きっとキャンディもそういう意味で『なにも変わっていない』のではないかと感じます。
もういいのではないでしょうか。
二人が一緒になっても。
そんな気がします。
もっとも、「その間にアルバートさんとの特別な感情が生まれていたのだ!」と言われてもおかしくはないとは思います。
何が起こるのかわからないのが男女の間柄ですからね。
でも、私としてはテリィと幸せになるような気がしているのです。(テリィファンだからそう願うというのもありますが)
『FinalStory』をこの世に生み出した原作者の意図がそこにあるような気さえします。
そうじゃなかったら、スザナの死亡とテリィからの意味深な手紙を入れたこの本を、今更出版する意味がない、と思うのですが。
とまあ、私の『個人的な』見解としてはこんな感じです(^^)
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【おまけの話】
ネット上には私の↑の見解などよりもっともっと詳細に色々検証している方たちもいらっしゃいます。それを見て、「すごいなー」と感心しきりな私ですが、某所で、『アルバート派vsテリィ派』に分かれてお互いのことを批判しあっているのを見たときは、正直引きました。
もちろん、『私の見解はこうです』と検証すること自体は問題ないと思うんです。それが文学の醍醐味。
でも、自分と違う意見を批判(←批評とは違います)することに何の意味があるのかと言いたくなります。
原作者さえも、「どちらでも」と言っているのだし、「『あのひと』はテリィだわ。」と思う人はそう思えばいいし、「アルバートさんよ!」と思う人はそう思えばいい。
わざとどちらとでもとれるように描いてくれているんだし。
同じ作品を好き同士、意見は違っても批判(ひどいものは相手の人格批判まで)のし合いは悲しいですね。建設的な意見の言い合いなら、むしろ読みたいんですけどね。
ま、「そういう言い争いが好きな人は勝手にやればいいじゃん!あんたが口出すことじゃない」と言われればそれまでですけど。
なんかホント見たとき「えーっ」と思ったので。
作者が自らうやむやにしてしまったメリットとデメリットが、ここにはっきりと表れちゃってるということでなんでしょうね(苦笑)
とはいえ、原作者が自由に読んでいいというのなら自由に読ませてもらいしょ。
ということで、『私はこう思う』っていう独り言を書いて自己満足させていただきました(笑)